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子育てパニック 教育環境

 数日前のnoteに「草毟りの思い出」を書いた。
「夏草」なんて素敵な響きの季語であるが、それを「取り除く仕事」となると火炎地獄に落ちるが如しだ。
「飛んで火にいる夏の虫」馬鹿だなあと思うが、彼等は、「火」を「灯」と思って飛び込んでしまうのだ。「熱中症になる」と分かっても「炎天下での草取り」をするのと同じではないか。
 馬鹿にするどころか、切ない「業の深さ」を感じる。
noteを公開した日に息子から面白い写真を送ってもらった。

複合施設?

「八重洲に高さ240mの複合施設ができる
 らしくて、
 低層階は小学校が入るんだってよー!」
と書き添えられていた。
「あっ。いいね!
 草取りしないで済むね。」
と返そうと思った。
 草取りの思い出は我が家だけではない。
 真愛も厚洋さんも職場(勤務先小学校)の草取りに苦労した。
 初めての6年生担任で、グランドの草取りを任せられ、半日近く草取りをした。その頃は「熱中症」ではなく「熱射病・日射病」と言っていたその日射病に罹った。
 体温上昇・呼吸困難・嘔吐・頭痛…。
救急車には乗らなかったが、死ぬ直前だったのだ。
 汗をかいていなかった為、服の上からホースで水を掛けられた。意識が戻った時には木陰で水浸しになって、子どもたちが仰いでくれていた。
 今考えると、子どもでなくて良かったということである。
 しかし、草が生える学校は沢山の遊びがあり沢山の生き物がいて、素敵な環境だったと思う。


 40年前、厚洋さんもある教育雑誌に、
「教務主任の必要な道具」と称して、
 パソコンの他に、工具箱・草刈機などなど教育に関係ないようなものをデカデカと載せた。
「教務主任なんてさ、
 時数の管理と雑用係が大事なんだよ。
 子どもも先生も気持ちの良い整った環境で
 過ごすことができることが一番なんだ。
 草取りをさせる事も大事だが、この暑さじゃな
 だからといって、草が生えない都会の学校より
 草に埋もれそうな学校の方が
 生命を学ばせることができる。
 草刈機を使えない教務じゃ困る。」

 まだ、若い教務主任なりたての頃の厚洋さんの
言い草だった。

ホテルも学校も

 息子のLINEには
「こんなとこで育っても、まともな奴にならな
 そうだよな?」
と続けられた。
「笑笑。
 ちょっとした街を造ろうとしているんだろうね。
 どんどん高くなって、地震があったら、
 気持ち悪くならくらい揺れるんだろうね。
 子どもの心だって、大きな揺れに耐えられない 
 直ぐ切れる子が育つんだろうねぇ。」
「ほんとだよなー!」
とLINEトークは終わった。
 教育環境って、人的環境と物理的環境のことかなと思った。

 教育環境を構成する要素として、基礎になる部分に物理的条件があるという。
 教室、机や椅子、室温、静けさ、自然環境などである。
 これらが満たされた基礎の上に、安心という要素が必要となるという。
 子どもたちが不愉快な思いをしたり、不安になったり、やる気を損なわれたりするような環境は、良い教育環境とはいえない。
 馬鹿にされたり、いじめが、あったりしては、安心して学習することはできない。これは、人的環境になるのだろうか。

 安心という要素の上に、帰属意識という要素が来る。
 自分の通う学校に対して、誇りを持っていれば、学習意欲を高める要素として、働くであろうし、無視されたり、大事にされなければ、帰属意識は、生まれない。
 帰属意識の上に、個人の尊重という要素が来る。
 ほめられたり、感謝されたりすれば、個人が尊重されているという気持ちが生ずる。
 逆に無視されたり、感謝されなければ、個人が尊重されているという気持ちが生ずることはない。
 これら「物理的条件」「安心」「帰属意識」
「個人の尊重」の4つの要素の上に、自己実現という。要素が加わる。
 自己実現とは、
「学習者が求めているものが、その教育環境に
 おいて与えられるかどうか」
によって決まるものである。
 教育環境を構成するこれら5つの要素が、それぞれどのような場合に、学習に適した環境といえるか考えることが重要だという。
 なんだか難しいが、「ビルの中の学校」と「夏草が生える学校」との違いは、物理的な自然環境の違いだと思う。
 机や椅子・教育機器が全て同じだとして、どっちが良いのだろう。
 別の資料には、
「学校教育に影響を及ぼす学校内外の諸条件」
が挙げられていた。
 学校環境には、学校内部における子供の学習・生活をとりまく環境と、学校をとりまく外部環境の二つの側面があると考えられる。
 以下、主として1990年代から2000年代にかけての学校環境の変化について述べる。
 学校内部における子供の学習・生活をとりまく環境として、
「教職員」「学校の施設・設備」等があげられる。
 教職員に関しては、地方自治体独自に教諭や非常勤講師を採用する動きが広がり、子供一人当たりの教職員数が増えつつある。
 学校の施設・設備に関しては、教室の壁を取り払ったオープンスペースがつくられたり、福祉施設と一体化した学校がつくられる等、さまざまなくふうが施された学校建築がみられるようになってきた。
 また、総合的な学習の時間の創設や、子供の体力低下の指摘を背景に、
「校庭にビオトープ」がつくられたり、
「校庭や校舎の屋上が芝生化」
されることも増えてきた。
 このような学校内部における環境の変化は、
 学校内における子供の学習や生活に少なからず影響を与えている。
 したがって、学校内部の環境が、子供の成長に好ましいものになっているのかどうかを考えていくことが今後も必要である。
 真愛の考え方は、この頃に刷り込まれたものなので、うなづける事も多い。

 一方、学校を取り巻く外部環境として、社会全体、地域、家庭があげられる。
 社会全体としての学校環境の変化には、
「情報化」「国際化」等がある。
 インターネットの普及や経済のグローバル化の進展によって、学校で学ぶ知識の量は以前ほど重視されなくなり、
「学び方」を学ぶことが学校教育の内容として重視されるようになってきた。
 このような社会変化のなか、高度経済成長期以来の「地域の人間関係の希薄化」や、「核家族化に伴う家庭の教育力の低下」は依然として問題であり続けている。
 また、こうした社会全体・地域・家庭の変化を背景に生じていると考えられる、
 いじめ、不登校、学級崩壊といった「学校病理現象」も深刻である。
 しかし、1990年代後半から、保護者・地域住民による学校支援ボランティアの実施や、学校運営への保護者・地域住民の参加といった試みが各地の学校でみられるようになってきた。
 このような学校と家庭・地域の連携・協力という学校環境の変化が、上記のような学校病理現象を克服しえるのかどうかが今後、注目される。
[大林正史氏・浜田博文氏]の文より抜粋。

「教育環境」は、どうあるべきだと一言で語れない時代になって来たという事は良くわかった。
 学校に行きたくても、通学する手段がなくなってしまった山間部の子どもたち。島の子どもたち。
 その地域を離れて、家族ぐるみで引っ越しをかんがえる親御さん達。
 ならば、雨の日も傘を刺さずにエレベーターで下に降りれば学校がある。そんな複合施設に居住したら良いのだろうか。
 自然が欲しければ、屋内にそっくり森をそっくり作れば良いのだ。安全に消毒された水道からの湧水が池を作り、その中で泳げたら安全だ。
 小動物も放して、つねに衛生管理をしていれば心を癒やし育む事もできるのかもしれない。
 教育環境…。
 何が一番大事なのだろう。
 教育環境…。
 どんな人間を育てたいのだろう。
 何のための教育なのだろう。

 厚洋さんと考えたはずだったのに、全く分からなくなってしまった。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります