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853日会いたいな。独り笑い

 「笑い」は、心身の安定に欠かせない運動である。今日、真愛は、一粒120円ぐらいのイチゴを買った。
 開けて見た瞬間。
 笑いが止まらなくなった。
 可愛いものを見ると微笑むが、
 ちっちゃいものが大きいと
「笑いが止まらない。」
「大きいね。」と笑い転げた。
 
 寒いのに心があったかくなるのを感じた。
絶対にストレス解消をしている。
 
「笑い」と「笑顔」の微妙な違いに気づいた。
「おいおい。今更かよ?」
って厚洋さんが笑っている。

「笑顔」・・・名詞 笑い顔。
「笑い」・・・動詞 笑うこと。
 やっぱり解らない。厚洋さんがいれば「言葉ウンチク」を語ってくれるのに…。
今日は、亡くなって853日目で、147番目の素数日で、命日だ。
 ちょっとぐらい顔を出してくれませんかね?
 
 仕方がないから、ネット検索。
「つまり、笑顔は相手ありき。
     笑いは1人でもOK。」
と書かれてあった。
 わかる様で分からない。このコロナ禍で、
 一人暮らしの真愛は、表情筋を鍛えるために鏡に向かって笑顔を作ったり、マスクの下で笑顔を作る練習をする。
 猫を相手にすることもあるが、相手がいなくても笑顔を作る「不気味な生活」をしている。
 笑いは、一人でもいい。これは納得。
 更に、次の様に書いてあった。
[笑い】は、面白いから、楽しいから笑う、と
    いう意味で受動的であるのに対して、
【笑顔】は、相手に対して発信していく能動的
    な行動である。
 したがって、相手もいないのにニコニコしてるのは、誰にも発信していないので「笑顔」とは言わないのだ。
 うーん!
 確かに、あれは「表情筋のエクササイズ」と言った方が正しいかもしれない。
 しかし、大好きな厚洋さんとの思い出に浸りながら思わず「微笑んだり」教え子から嬉しいLINE動画をもらい、画面に向かって「笑顔」になる事がある。
 コレは「笑顔」ではないのか?
 真愛が読んだのは、笑顔コンサルタントの門川義彦先生のお弟子さんが書いている様だ。
 先生も面白そうな方だが、この投稿者もなかなか楽しい書き方をする。
「突然ですが皆さんはしらたきと糸こんにゃく 
 を同じものだと思いますか?
 大体同じです。
 同様に
 笑顔と笑いは同じものだと思いますか?」
って、それが知りたくて聞いてるのに。
「このへん、
 なんだか凄く曖昧な感じがします。」
という。
「そうか。曖昧なんだ。曖昧でいいんだ!」
と思わせた後、猿の笑いや英語における笑いについて難しい話が書かれていた。
 曖昧ではなさそうだ。
 
 笑顔には心からの楽しさ、嬉しさなどに起因する
「自然な感情表現の笑顔」と
「愛想笑いや嘘をつくときの作り笑い」
の笑顔があるという。
 確かに、嬉しい時の笑顔と笑って誤魔化す時の笑顔がある。
 「笑顔」の奥にある心のありようで随分と違う。やはり、「笑顔」は、相手に対して発信する「上っ面」のものなのかもしれない。
 
「笑い」についても面白い資料が載っていた。
「笑いは、物理的に声が出る感情表現で、そこには「笑顔」が包括する意味合いと、さらに「面白い」「おかしい」「愉快」「あざける」といったような、意味も含まれる。
 作り笑いは別として自然な笑顔は
「心地よい」「快」を根源とし、微笑む時、
唇を“U”の字にする大頬骨筋は、乳児が母乳を吸い取る時に使う筋肉であるので、
 個体発生上の笑顔の起源は、母乳を吸った時の満足の表情であるとされるそうだ。
     (永井俊哉講義録 第160号より)
 笑顔の日本語「ほほえむ」は、
「笑む」+「ほほ」が合成されてでき、
「成熟する前に、蕾の様に膨らむ」ことを古語で「ホホマル」「ホホム」と言い、
この「ホホ」の部分が「ほほ」の部分になったという説がある。」という。
 
 この中での「自然な笑顔」の心地良さは、
「母乳を吸った時の満足の表情だからという説に納得。
「笑顔」と「笑い」では、起源そのものが異なっているので、同じだとは言えないが、自然発生的に出る「笑顔」も「笑い」も私自身の心の表れで「快」の感情であることは明らかだ。
 
 生まれたばかりの感情未発達の赤ちゃんは、
「快」と「不快」しかないと聞いた事がある。
 その一方の「快」の最初の表現が「笑い」であり、「笑顔」なのだから、一番素晴らしい、一番人間的な感情であり、表現方法なのだ。
 「笑顔」には相手がいる。
 母を見、父を見、誰かを見つけて笑うのだろう。人間の本能としての「笑顔」なのだろう。

「笑顔」は他人との正常なコミュニケーションを行うための、きわめて対外的な役割を担い「笑顔」は一人ではできない。
 相手がいるから笑顔。
 目の動物である人間は、アイコンタクトと笑顔は多くの場合セットで表現される。
 笑顔を他人にむけるとき、目線だけ外していることはない。相手の目を見て微笑む。
 たとえ言葉がそこになくとも、表情と目線で気持ちが伝わるのだ。
 真愛がお墓の前で「笑顔」で語るのも、そこに厚洋さんがいると思うからだ。
 必ず相手がいる。
「笑顔」は遠い祖先のサルでいう「威嚇」であり、恭順の意であった。
「笑い」は「興奮・楽しさ」の表れだったという。
「笑い」は自己感情の表現であるが、
「笑顔」は他者とのコミュニケーションの側面があるともまとめていた。

 ー笑顔と笑いは似て非なるものー
 
で、今日の「笑っちゃった」のは、

 真愛が「楽しくて」笑ったのだ。
 意外だったので「面白くて」笑ったのだ。
一人でもできる「笑い」であって、心の運動なのだ。
 この苺を購入し、友達のところに届けて、
「ねぇ。見て見て❣️」
と箱を開けてみせると、友達がびっくりする。
大喜びをする。
 それを見て「笑顔」になる。
 彼女に喜んでもらえた喜びであり、コミュニケーションを取り合えた喜びなのだ。
 
 真愛は、多くの人の「笑顔」が見たい。
 厚洋さんが絵本を書く真愛に向かって
「力むな!徳目なんかじゃない。
 お前の書いたものを読んで
 心からの笑顔になる様な本を書け!」
と言ってくれた。
 難しくって書けないし、描けない。
 人が喜んで「笑顔」になって、真愛を見てくれたら嬉しい。
 厚洋さんが笑顔で、褒めてくれる。

 しかし、このコロナ禍で、「独り笑い」で、心の運動をするしかないのかな。
 853日め。厚洋さんに会いたいな。
 友達からLINEで、送られてきた画像。

 笑っちゃった。







ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります