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国際交流・その国の歴史の理解 

 大爆発のあったレバノンの歴史を初めて聞いた。何度も侵略され、奴隷になり、それでも抵抗をし続けたレバノンの民。
 真愛の住んでいる日本は、他国から侵略された事(沖縄は侵略されている)も奴隷になっている事もない。(米軍の占領下ではあったが)
 レバノンの民の思いをどう想像して良いかも分からない。
 そんな真愛が「国際交流」を語るなんて、ちゃんちゃらおかしい。
 以下は、真愛の学習のために調べた事。
 歴史の流れっぽい事は分かった。 
 私が感じた事は、「レバノンは、占領・反乱・抵抗・奴隷の繰り返し」だったということだ。
 国際交流協会で「ネパールの子」の日本語学習のお手伝いをしている。
 真愛は、その子に失礼であった気がする。
 ある国の人と交流をするならば、その人の国の歴史の流れの中で培った国民性を分かろうとするべきであると感じた。
 ましてや、歴史も文化も分からないで、否定したり愚弄する事は許せない事だ。
 真愛が言うのも烏滸がましいが、折角調べた事なので、一緒にレバノンについて少しだけ読んで頂けたら幸いです。

      ー記ー

 古代レバノンの歴史は、フェニキア時代からアラブによる統治まで。
 紀元前3000年ごろ、セム系の民族で「フェニキア人」が住んでいた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた紫色(purple=phoinikies)の染料から付いたそうだ。
Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商を行ったフェニキアの都市であり、杉材、オリーブオイル、ワインを輸出し、金やその他の生産物をナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。

 エジプトのトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。 
 
 この頃がギリシャ神話ができた頃かな? 
 レバノンの直ぐ横にキプロス島がある。

 アフロディーテが生まれた島と言われている。アフロディーテはギリシャ神話でオリンポス山の山頂に住むと伝えられるオリンポス十二神の一柱。
 愛と美を司る女神。
 海の泡から生まれたアフロディーテは、ペトラ・トゥ・ロミウ海岸に流れ着いたと言い伝えられている。ボッティチェリの代表作
「ヴィーナスの誕生」は、
 帆立貝の貝殻に乗った女神が風の神に吹かれて岸にたどり着く様子を描いている。
 あの島がキプロス島だ。

 紀元前14世紀、エジプトが弱体化。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。
 フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。
 フェニキアの船は、ポルトガルによる世界一周の2000年前に、アフリカを周回していたと言う。 
 アッシリア時代は、紀元前875年から608年まで続いた。
アッシリアは、フェニキアの都市群から独立と繁栄を奪い、フェニキア人は、複数回にわたり反乱を起こした。ルハドン(紀元前681-668年)によって、シドンの民は、奴隷化された。
 紀元前7世紀末アッシリア帝国は連続する反乱のために弱体化し、メソポタミアで勃興した新バビロニア王国によって滅ぼされる。

 フェニキア都市群の反乱は、バビロニア時代(紀元前685年から636年)でも頻繁に反乱を起こした。
 ティルスは、再度反乱を起こし、ネブカドネザル2世の軍隊による包囲に対して13年間も抵抗したという。

 アケメネス朝ペルシアを創立したキュロス2世によって、紀元前539年ごろ、バビロニアの時代は終了を迎える。
 そして、フェニキアは周辺諸国とともに、ペルシャの領土に組み入れられた。
 ペルシャ戦争の時代、フェニキア人は、ペルシャを海軍力で支えた。しかし、ダレイオス1世(在位紀元前521年から485年)がフェニキア人に重税を課したために、レバノンの沿岸部の都市では反乱が起きた。
 反乱・抵抗・奴隷の繰り返しだ。

 アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼした。その過程で、彼は小アジアでペルシャの軍隊を紀元前333年に撃破、その後、レバノン海岸に歩を進めた。
 アレクサンドロスは、紀元前332年の早い段階でティルスを包囲し、その6カ月後、ティルスは陥落し、住民は奴隷として売られていった。  
 アレクサンドロスの死が紀元前323年とあまりにも早かったにもかかわらず、アレクサンドロスの遠征は、東地中海地方にギリシャの色を大きく残した。

 アレクサンドロスの死後、フェニキア、小アジア、北シリア、メソポタミアを含む帝国東部は、セレウコス朝の統治下に置かれた。
 南シリアとエジプトはプトレマイオス朝の統治下に置かれだ。
 マケドニアを含むヨーロッパは、アンティゴノス朝の統治下に置かれたが、最終的には、セレウコス朝の領土となった。

セレウコス朝の最後の世紀は、紀元前64年、共和政ローマによる侵攻を許し、レバノンはシリアとともにローマの領土(シリア属州)となる。 
 パックス・ロマーナと呼ばれる時代、レバノンでは経済的・知的活動が花開いた。
 かつてのフェニキアの都市であったビュブロス、シドン、ティルスは、ローマの市民権を付与された。 
 これらの都市群は、陶器・ガラス・紫の染料の生産の中心地であった。港は、シリア、イラン、インドからの物産の集積地となった。
 また、同時に、杉材、香水、宝石、ワイン、果物がローマに輸出された。経済的繁栄は、都市の再興と郊外の発展へとつながった。神殿や大邸宅がこの時代に多く建設されると同時に、都市間は舗装道路で結ばれた。
 漸く、落ち着いたかと思ったが、テオドシウス1世が395年に死去するとローマ帝国は、東西に分割された。 
 東ローマ帝国の統治の下で、ベイルート、ティルス、シドンは、ローマ時代よりも経済的繁栄を謳歌したが、6世紀、バールベックの神殿建築群とベイルートは、地震によって崩壊。
3万人近い住民が死亡した。
 
 レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。
 第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた。
 フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。
 1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立した。
 レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥によるレバノン内戦(1975年~1990年)によって崩壊した。
 この戦争は部分的にシリア(1975年~2005年)とイスラエル(1985年~2000年)による軍事占領につながった事になる。

 レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている。
 内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた。
 華僑・印僑・ユダヤ商人といわれるバレシリ世界三大商人達は、自国にゲンナマでため込んだと言う。
 ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した。
 終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできた。
 紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾の石油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国である。
 内戦のあたりから読んでいても理解ができなかった。イランとの関係。宗教との関係。
 ヒズボラは現在は政治勢力の一つとして、レバノンの国政に参加、選挙を通じて代表をレバノン議会に送り、一定の政治的影響を持つに至っている。
 しかし国際社会からは依然としてテロ組織と見られており、そのイランやシリア(アサド政権)寄りの姿勢に対してはレバノン内部や他のアラブ諸国からの反発も多い。
 【結局は、理解出来なかった。】
 ただ、そこに暮している人々が、自由を求めて、幸せを求めて生きてきた事は間違いない。
 

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります