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いいね!何がいいのか。

 田中一村氏の「不喰芋と蘇轍」の特集をしていた。厚洋さんが退職前に好んで展覧会に出かけて行った画家さんの絵である。
 展覧会に行って帰って来ると、結構なお値段の画集を買って来て
「いいだろう?
 輪廻転生。命の全てだよ。
 時の流れが見えるだろう?」
と言われた。
「凄いわね。」
とは返事をしたが、何もわからなかった。
 写生のような野の花を描いていた真愛には、濃い色も、くっきりとした線も、驚くほど幾何学模様のようで、美しい日本画とは感じられなかった。
 ところが、何度も見せられ、何度もその良さを話され、同意まで求められると次第にその絵が何となく素晴らしく見えて来る。
 不思議なものだ。“亭主の好きな赤烏帽子”である。
 田中一村という画家の名前と厚洋さんの熱く語る顔をしっかりと記憶した。

不喰芋と蘇轍

 今回の特集には、厚洋さんから聞いたような言葉が並んでいた。
 奄美の自然と光を愛した孤高の天才画家。
 元々一村さんは、お父さんのDNAを受け継いでいた。
 お父さんの手解きで7歳から南画を学び、「神童」ともてはやされたという。
 厚洋さんが好きだったのもそんなところかなと思う。北海道生まれの厚洋さんは、幼い時は理髪な子で「神童」「末は博士か大臣か」と言われるほど賢かったらしい。
(おじさまが秋田大学の教授で、その方に『小さい頃は賢かったが大人になったらただの人以下になった。』と言われた真愛が憤慨して厚洋さんの素晴らしさを語り、「良い嫁さんを貰ったな。」と茶化されたのを思い出す。〕
「神童だった。」「孤高の…。」なんていう言葉が彼にとって魅力だったのだろう。
 さて、一村さんは10代ですでに画家として人気を博していたが、「売るだけの絵ではなく、自分の信ずる絵を描きたい。」という思いから、写生に基づく新たな日本画を模索し始めた。
 華麗で繊細な花鳥画に取り組んだ一村さんだったが、その画風は後援者の支持を得られず、また、自信を持って望んだ公募展でも落選が続いた。
 悩み抜いた末に「新たな表現」を求めて、当時の日本で最南端の奄美へ単身移住するのだ。
なんと、50歳だったという。

初夏の海に赤翡翠

 奄美に渡って間もない頃、その植生の珍しさに心奪われて描いたとされる「赤翡翠」は一村さんがモチーフとして好み多くのスケッチが残っているそうだ。
 真愛も好きな絵だ。
 南国の葉が黒々として、ギラギラ光る太陽を全て遮った影の中に、何を見ているのか、可愛い丸い目で私を見ている。奄美の海なのか空なのかわからないが、青じゃないところがいい。
 南の島の空はみんな青いのが嫌だ。
 「赤翡翠」は「神の使い」と言われるほど美しい朱色の鳥で、鳴き声は「死人も生き返るほど美しい」と言われている。
 🎶ド・ドシラソミレド🎶とオクターブ高い声で鳴き、可愛らしい。
 人があまり来ないから、奄美の自然は平気で近寄ってくる。この「赤翡翠」もきっと一村さんをじっと見ていたのだろう。
 手前のハマユウの色い花も岩を背景に鮮やかな命である。名前はわからないが、白い房なりの花も模様のようで美しい。
 植物はよく見ると幾何学模様だったり、図形だったり、素晴らしい規則性を持っていて、それが神様が作った不思議な命に思えるのだ。
 厚洋さんが言っていた、
「いいだろう?いいだろう?
 輪廻転生。命の全てだよ。
 時の流れが見えるだろう?」
がちょっと分かる。

最晩年の傑作

 生涯独身。69歳没。
 墓所は満福寺。戒名は真照孝道信士。
 描いても描いても、認められずそれでも描きたくて描く。
 真愛は、原画さえ見た事が無い日本画家だったが、彼の経歴「Wikipedia」を読んで、泣けた。
(真愛も「選外」「落選」通知をもらった
 ばかりだったので、程度の違いはあれど、
 自分の作品が認められない悲しさが、
 ちょっとだけ分かった。
 話は飛ぶが、厚洋さんが亡くなって今日で
 1511日目の素数日。
 きっとあちらで操作をして、真愛に一村さん
 と出会わせてくれたのかもしれない。
 お前の辛さなんて、屁にもならない…と。)

 彼の落選歴は、凄い。
 それでも描きたかったのだ。
 1931年 - それまで描いていた南画と訣別。
 自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられなかった。 
 1948年 - 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、
『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。 
 1953年 - 第9回日展(審査員に美大入学時同期だった東山魁夷が参加)に、『秋林』を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。
 1954年 - 第10回日展(審査員に美大入学時同期だった加藤栄三、橋本明治が参加)に『杉』を出品するが落選。
 一村さんは、今の東京藝術大学に入学し、東山魁夷などと同期なのだが、彼は2ヶ月で退学しているのだ。理由は分からないが、どうも自分が学びたいものではなかったらしい。

 1958年 - 第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品するが落選。
 この雑誌の特集にも、厚洋さんの言葉にも「孤高の天才画家」とあったが、「孤高」がわからなかった。
 しかし、自分の学びたい事の師が見つからず、自分の作品が認められず、苦悩の中でそれでも描き続ける。それも自分の描きたいこと「表現したい何か」を探りながら描き続ける。
 アルバイトをしながら、描き続ける。凄い人だ。
「日展・院展なんて、その人脈やお金を積んで賞をもらうんだ。」って、噂で聞いた事がある。
 体制に迎合して、支援者におべっかを使って生きていたのではない。「自分の描きたいもの」を探りながら「描きたいもの」を独学で学んだ力で表現していたのだ。
 「孤高」である。気高いと思う。
 真愛の好きな「白い花」の絵を描いていた。もちろん赤翡翠も花の下に止まっていた。
 赤翡翠は、一村自身のような気がした。

「不喰芋と蘇轍」(1974年)
 日本画の確かな技法と、晩年までピカソも研究していたという西洋画にもならう構成の力。
知人への手紙で「閻魔大王への土産品」と語るほど力を込めた最晩年の傑作である。
 アトリエに100種類以上残されていたという岩絵具。
 緑色の使い分けにより、生命力あふれる奄美の自然を捉えている。
       《ニッポンART探訪より》 
 岩絵具で緑の葉を表現するのは、本当に難しい。真愛なんか、お金をケチるから、岩絵具全部で30色。緑は5色しか購入しなかった。だから、水彩のように微妙な色の変化が出せず、気がつくと烏瓜の葉っぱは奥行きがなくへばり付いてしまっていた。
 この「不喰芋と蘇轍」は、一つの植物の花から実、実から枯れるまでのを同時に描く事で、永遠に続く生命の循環や輪廻の世界を表しているそうだ。
 だから、「閻魔様へのお土産物」なのだ。

 少しだけだが、一村の作品を
「いいだろう?
 輪廻転生。命の全てだよ。
 時の流れが見えるだろう?」
って言った厚洋さんの言葉が理解できた。
「貴方が逝って1511日め。
 心の底から、ちょっとだけ分かって
 《良いね❣️》と共感できるわ。
 そして、一村さんみたいには、
 有名になれないけど、
 自分の信ずる絵を求めて描くことは、
 死ぬまでやりたいわね。」
と、厚洋さんに返事ができる。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります