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作品作り

『何故、作品にして見せなければいけないの』
 って仰る方がいるのですが、
 私は、ただ好きで描いているだけではいけな
 いと思っています。
 今の自分を精一杯表現して、人に見てもらう
 そして、出来れば見た人を感動させる作品を
 作りたいと思うのです。
 上手いとか、下手とかの評価ではなく、
 その時点でなんらかの感動を伝えられる
 自分で有りたいのです。
 当然、習いに来てくださっている方も、
 『人に頑張ったねと言われること』も感動で
 すし『もう少しこうすればもっと感動される
 (心に響く)事が出来たかもしれない』と思
 うことも、生き方の感動だと思うのです。
 ですから、嫌がらないで描いてくださいね」

 素晴らしい水墨画の師である。
 私が教えていた頃の彼女からは想像できない。
 どんな苦難を乗り越えてきたのだろう。
 どんな感動体験をしてきたのだろう。
「人を感動させ、気持ちよくさせる作品」
を作りたい。
 しっかりと師の思いが伝わって来た。

画集を提示して

 ちょっとした興味で、半年間の教え子さんの水墨画教室に通っている真愛である。
 最初の2回は、隷書体を習い簡単な蘭や竹を描いてその難しさに音を上げそうだった。
 ところが、古典の文字を勉強をさせてもらって面白かったのだ
 3000年に及ぶ中国の書の歴史上、
 王羲之(おうぎし)が活躍した東晋時代と、
 欧陽詢(おうようじゅん)・
 虞世南(ぐせいなん)・
 褚遂良(ちょすいりょう)・
 顔真卿(がんしんけい)の四大家が活躍した唐時代の話と書法を学ぶ。
 四大家それぞれに書風は異なり、趣の異なる書となる。

書き分けられない💦
褚遂良

朱書が師匠!墨が真愛💦
なんで出来ないの?!

欧陽詢

 もっと分からん。
 どうしてこんな線が出来るの?

筆の動きが凄い


 欧陽詢も虞世南も、もとは南朝の陳に生まれたが、欧陽詢の代表作「九成宮醴泉銘(632年)」は、北朝の流れを汲む隋様式を受け継いで、研ぎ澄まされた造形である。
 隋の「美人董氏墓誌銘)」(597年)は、すでにかなり洗練されていたが、欧陽詢はこれをもう一押し、更に磨きをかけたのだという。
 欧陽詢は文字を書くにあたって、
 どの部分を主とし、
 どの部分を従とするのか、
 どこを軽くし
 どこを重くするのか、
 全体の字姿をイメージしてから、
 筆をおろしたと言われる。

 この考えを突き詰めて、36のルールに帰納させ、「36のルール」を学べば、誰でも手っ取り早く美しい文字が書けるようになるというのだ。

 これに対し虞世南の代表作 「孔子廟堂碑)」(628~630頃)は、王羲之の7代目の孫・智永に書を学んだだけあって、一見すると穏やかな用筆でありながら、力を内にこめた表現になっているのだそうだ。
 王羲之は、何気ない書きぶりの中に、豊かな表情を盛り込み、文字の形も大切だが、実際の書を見ると、筆の勢いや墨色の諧調などが微妙にからみあい、形以上に文字の芸術性が感じられるという。
(既に聞いている日本語が理解できない。)

 虞世南はこの考えを推し進め、文字の組み立て方や筆の用い方に留意するだけでなく、文字に自分の心もちを盛り込む表現をめざした。
 更に芸術性を加味したのだ。

 唐の第2代皇帝の太宗は、正当な伝統を受け継ぐ江南の文化にいかに対峙するかを考えていたという。
 書は芸術になり、芸術の素晴らしさが国の素晴らしさだったのだ。
 太宗が王羲之を熱愛し、蘭亭序に固執したのも、それなりの理由があった。
 太宗の善政によって貞観の治が導かれ、天下泰平の日々が続き、素晴らしい名筆がうまれだという事だ。
 やがて褚遂良、そして顔真卿らが活躍し、歴史に残る黄金期を形成していったという。

虞世南

面長のいいおじさま

顔真卿

切れ長の眼でいい男だ。

褚遂良

それなりに偉そうでいい男である。

ところが「欧陽詢」の肖像画が見つからない。
と教えてもらった。
 彼は「白猿の子と言われる程猿に似ていた」という
 欧陽詢 557年〜641年。85歳まで生きた人だ。
 同じく初唐の三大家のひとり虞世南よりひとつ年上で、亡くなるのは虞世南の3年後。
 欧陽詢は虞世南と同じく南朝・陳の人で潭州臨湘(今の湖南省長沙市)に生まれた。
 祖父の欧陽頠は陳の大司空を勤めた官僚で、父の欧陽紇は陳の広州刺史を勤めたが、謀反に加担したため殺される。
 反逆の罪なので、当然一族である欧陽詢も処刑される身だったが、父の友人である江総が欧陽詢を引き取ってくれたのだ。
 欧陽詢が12歳の時。
 欧陽詢が24歳の時、時代が大きく動き、南北朝に分かれていた中国を隋が統一。
 王朝が変われば、人の対応も変わる。
 彼は、反逆者の子ではなくなったのだ。
 隋朝に登用されると、太常博士という官職に就く。
 南朝で育った欧陽詢は、王羲之の書を学び、 養父・江総は、可哀想な境遇の欧陽詢を大切に育てたという。
 それは、欧陽詢自身が非常に勤勉だったという事も賢くなったという事も頷ける。
 恩に報いる事なのである。立派な人である。
 旧唐書には「欧陽詢は初め王羲之の書を学んだが、やがて強さ鋭さでこれを凌駕するようになった。」と記されているそうだ。

 欧陽詢の書には、南朝の優雅な美しさの中に、キリリと引き締まった力強さがあるという。楷書の極則「九成宮醴泉銘」を学ぶと必ず話される事である。
 やがて唐朝を建てた李淵(高祖)とは隋朝に仕えている時から親交が深く、親密な関係であったそうで、李淵に引き立てられた欧陽詢は給事中という要職に大抜擢される。
 欧陽詢の学識からすれば当然のこと。
 だが、すでに欧陽詢は62歳という高齢。
 さらに唐の二代皇帝・太宗が即位すると弘文館が作られ、虞世南とともに弘文館学士に任ぜられ、太子率更令という皇太子の守役にもなる。
 欧陽詢が「九成宮醴泉銘」を書いたのは76歳の時だそうだ。(遅咲きでも素晴らしい人は素晴らしいものを残す)
 欧陽詢は、楷書のみならず八体(古文、大篆、小篆、隷書、章草、飛白、楷書、行書)全てが巧みであったと書断に記されているそうだ。
 書だけでなく、撰著として「藝文類聚」を始め「麟角」「用筆論」「八訣」などがあるほどの学識だったというが、よく分からん。
 ただ、書も素晴らしく、頭も良く、なんでもやれる素晴らしい人だった事は理解できた。

 しかし、
 高麗からの使者が唐を訪れた時、唐の高宗は「その書を見たら、立派な風貌だっただろう」 
 と嘆いたという。
 また、文徳皇后の葬儀に喪服をつけて列席し
 た欧陽詢を見て人々はあまりにもカッコ悪い
 ので密かに笑ったが、許敬宗という人が大い
 に笑ったために左遷されたという話。
 唐代の「補江総白猿伝」という小説に
「母親が白猿にさらわれた時に身ごもったのが
 欧陽詢だというような話まで残っている。
 旧唐書にも、
「容貌は大変醜い小男だったが、聡明さは際立
 っていた」
 と書かれているとのこと。

「 欧陽詢の肖像画が残されていないのは、
 このような事情もあるのかもしれませんね」
と、我が師匠(中山明粋)は語った。

 真愛は、欧陽詢が好きになった。
 高校の書道の先生は、そんな話はしてくれなかった。
 もしも、その話を高校の頃に聞いていたら、真愛の母も師範の資格を持っていたので、もっと書についてその面白さや魅力を追求できていたかもしれない。
 しかし、当時の真愛は、
「どうしたら子どもの肥満を解消出来る食事が
 作れるか。」
 なんて研究をしていた。
 それで良かったと今は思う。
 そうしなければ厚洋さんには出会っていないからだ。(いつものお惚気!)

「おい!
 どんな作品にしたいか考えるんだろう。
 お前の場合は、絵が先?
 文字が先?
 師匠が言うように
『人を感動させられる作品』
 を目指さなくちゃな。
 目指すだけは自由だからな。」

 厚洋さんが書家のような口髭を撫でながら
笑った。



ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります