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愛しい人の六回忌

 偈
 「一念弥陀仏(いちねんみだぶつ)
  即滅無量罪(そくめつむりょうざい)」
  現受無比楽(げんじゅむひらく)
  後生清浄土(ごしょうせいしょうど)
 愛しい夫・厚洋さんの祥月命日だった。
 あちらに旅立って5年。六回忌である。

 今だに厚洋さんに会いたい。
 しかし、彼はあちらに逝ってしまって、もうこの世では会えないのだという事は、ちゃんと理解した気がする。
 彼の生きていた時の歳は止まったままなのに、真愛の歳はしっかりと時を刻み、肉体の老化も進み、あの頃の厚洋さんに近づいて来た。
 時の流れは、残酷にも真愛の嗅覚から彼の香りを忘れさせ、肌の感触も忘れさせた。
 しかし、思い出を美化し、愛された幸せを増させてくれるのが時の優しさかもしれない。

 三回忌が終わってからも、祥月命日にはいつもと違う何かをしたかったので、「お塔婆」を書いて頂きお墓参りをする事にした。
 こんな我儘も、葬儀を執り行って頂き、彼をあちらに送って頂いたご住職が真愛の教え子さんで、息子の同級生ということでお願いする事ができる。
 何度も書いて頂いているのに、今年は上記の言葉が気になった。
 「一念弥陀仏(いちねんみだぶつ)
  即滅無量罪(そくめつむりょうざい)」
  現受無比楽(げんじゅむひらく)
  後生清浄土(ごしょうせいしょうど)

[ 一たび阿弥陀仏を念ずれば、
 ただちに無量の罪を滅ぼし、
 まのあたりに無比の楽を受け、
 後生には浄土に生まれん。]

 意味としては、お念仏をすれば、全てのこの世の罪を消し去り、すぐに比べることのない安らかな思いになる。そして、必ず極楽浄土に生まれると言っているのだと思う。
 だいたい、仏教について無知な真愛なので、思い込みの読み取りである。

六回忌 準備

 厚洋さんを送ってくれたご住職は、真言宗智山派 (空海・弘法大師様)が始祖のお寺のお坊様だ。
 だから、光明真言を唱える。
 光明真言は、正式名称は不空大灌頂光真言という密教の真言である。
 光明真言とは、密教の真言。23の梵字から成り、休止符「ウン」を加え、合計24字。

オン アボキャ ベイロシャノウ
   マカボダラ マニ ハンドマジンバラ
            ハラバリタヤ ウン
ओं अमोघ वैरोचन महामुद्रा मणि पद्म ज्वाल प्रवर्त्तय हूं
と、わからん文字が書いてあった。
光明眞言は、大日普門の萬徳を二十三字にまとめ、自分を空むなしくして 一心に唱えれば、御仏のの光明に照てらされて迷いの霧はおのずから晴れ心は浄れ浄れ玉明きらかになり、眞如の月円になる。
 一心に唱えるというのは、どの宗教も同じ気がする。
 要するに、邪心なく無心になる事によって、自分自身と向き合い、しっかりと腹式呼吸をするので精神が安定する事なのだ。
 そんな事も考える事なく、最初のお施餓鬼の時に、若住職さんから頂いた般若心経の後に書かれたものを毎朝、お仏壇で唱えるようになった。
 願わくば我らと衆生と皆と仏道に浄ぜんことを…。
と唱えるところを、願わくば我らと衆生皆とが幸せに浄せんことを…。
と唱えている。
 仏道、仏の道っていうとなんだかひとつの宗教団体に所属してしまいそうな気がするので唱えない。
 厚洋さんが元気な時に
「俺のウチは浄土真宗。
 お前のウチは浄土宗。
 南無阿弥陀仏だよな。
 でも、若い頃はキリスト教が好きで洗礼を
 受けようと思ったんだ。
 ばあちゃんは学会で、おじさんなんか随分と 
 偉い人みたいだ。
 北海道って学会が多いんだ。
 でも俺はそっちがダメでなあ。
 兎に角、ばあちゃんのウチでは、
 朝の勤行はやらされたぞ。妙法蓮華経…。
 宗教なんて哲学だ。
 その人の生き方なんだよ。
 死に方って言った方がいいかな?
 で、俺は無宗教!」
 真愛も日曜学校に行き、讃美歌を歌い洗礼名に憧れた若い時期もあったが、宗教に関心を持つことはなかった。
 実母が亡くなって、菩提寺のご住職に沢山のお話を聞き、菩提寺が永代にあったお陰で、深川不動様にも、富岡八幡様にもお参りするようになり少しずつ宗教(哲学)を考えるようになった。
 厚洋さんが逝って、更に宗教に関わる事になった。宗教というより、どう生きるか、どう死に対峙するかという「真愛の哲学」を探すことになったのだ。
 で、真言宗智山派のご住職が書いてくださったのが、浄土宗一遍上人語録の中の言葉だったのだ。

六回忌

「一念弥陀仏、即滅無量罪、
 現受無比楽、後生清浄土
《一たび弥陀仏を念ずれば、
 即ち無量の罪を滅し、
 現世には無比の楽を受け、
 後の世は清浄の土に生ず》
といふ事。
 無比の楽を世の人の世間の楽なりとおもへるはしからず。これ無貪の楽なり。
(ここら辺から分からなくなって来る。

 その故は、決定往生の機と成りぬれば、
 三界・六道の中にはうらやましき事もなく、
 貪すべき事もなし。
 生々世々流転生死の間に、皆受けて、
 すぎ来たれり。
 然れば一切無着なるを無比楽といふなり。
 世間の楽はみな苦なれば、いかでか仏祖の
 心愚にして、無比の楽とは曰ふべきや。
(全く分からない。
 が、韻が気持ち良いというか、なんだか
 分かった気になるから不思議だ。)

別願和讃っていうのも載っていた。

身を観ずれば水の泡 消えぬる後は人もなし
命をおもへば月の影 出で入る息にぞ
とどまらぬ
人天善所の質をば をしめどもみなたもたれず
地獄鬼畜のくるしみは 
いとへども又受けやすし
眼のまへのかたちは 盲て見ゆる色もなし
耳のほとりの言の葉は 聾てきく声ぞなき
香をかぎ味なむること 
只しばらくのほどぞかし
息のあやつり絶えぬれば 
この身に残る功能なし
過去遠々のむかしより 今日今時にいたるまで
おもひと思ふ事はみな 
叶はねばこそかなしけれ
聖道浄土の法門を 悟りとさとる人はみな
生死の妄念つきずして 
輪廻の業とぞなりにける
善悪不二の道理には そむきはてたる心にて
邪正一如とおもひなす 冥の知見ぞはづかしき
煩悩すなはち菩提ぞと 
聞きて罪をばつくれども
生死すなはち涅槃とは 
いへども命ををしむかな
自性清浄法身は 如々常住の仏なり
迷ひも悟りもなきゆゑに 
しるもしらぬも益ぞなき
万行円備の報身は 理智冥合の仏なり
境智ふたつもなき故に 心念口称に益ぞなき
断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり
十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき
名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり
十方衆生の願なれば 独りももるるとがぞなき
別願超世の名号は 他力不思議の力にて
口にまかせてとなふれば 声に生死の罪きえぬ
始の一念よりほかに 最後の十念なけれども
念をかさねて始とし 念のつくるを終とす
おもひ尽きなんその後に 
はじめおはりはなけれども
仏も衆生もひとつにて 
南無阿弥陀仏とぞ申すべき
はやく万事をなげ捨てて 
一心に弥陀をたのみつつ
南無阿弥陀仏と息たゆる 
これぞおもひの限りなる
この時極楽世界より 弥陀観音大勢至
無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し
一時に御手を授けつつ 来迎引接たれ給ふ
即ち金蓮台にのり 仏の後にしたがひて
須臾の間に経る程に 安養浄土に往生す
行者蓮台よりおりて 五体を地になげ頂礼し
すなわち菩薩に従ひて 漸く仏所到らしむ
大宝宮殿に詣でては 仏の説法聴聞し
玉樹楼にのぼりては 遥かに他方界をみる
安養界に到りては 穢国に還りて済度せん
慈悲誓願かぎりなく 長時に慈恩を報ずべし

 なんだか煩悩だらけの肉布団を着た真愛が、少し浄化したような気になるから不思議だ。

 この「和讃」。仏教の教義や仏・菩薩あるいは高僧の徳などを、梵讃・漢讃にならって、和語でたたえるた詩のようなもの。
 七五調の4句またはそれ以上を一節とし、曲調をつけて詠じる歌だから、詩の感じがするのも当たり前の事。
 日本人の血のリズムっていうのかな。
 七五調で表現されているから、中身がわからなくても気分が良くなるようにできている。
 この和讃は、平安中期から流行したそうだ。
 厚洋さんの六回忌。
 成願寺の若住職様にお塔婆を書いて頂き、感謝である。
 来年の七回忌までの1年間をちゃんと厚洋さんを思って、奥平厚洋の妻として、いつ彼に会う事になっても恥ずかしく無い生き方をしなければって思う事ができた。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります