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子育てパニック 言葉

 3月が終われば4月。
 当然のことだが、新学期が始まり子どもたちは、ひと学年ずつ進級する。
 幼稚園児だった子が、一日経つと小学校一年生になるのだ。
 退職して毎日が休日になり、一日にして大きな変化をすることがなくなったので、新一年生のドキドキがなかなか聞き取れなくなった。
 昔むかし。
 真愛の子供の頃はうーんと貧乏だったので、幼稚園にも、保育園にも行けなかった。
 幼児教育をしたのは母である。
 10枚1円の葦簾を編んで内職をしている母の横で、ひとりお人形遊びをし、納品する母と一緒に10kmの道を手を繋いで歩いた。
 言葉を覚えたのは、母や兄との会話とご近所のおばさんたちとの会話からだ。
 本は兄の教科書。
 お話は母の語り。
 歌も母からだから、とんでもない歌も覚えた。  

 一年生になった時の思い出には、あまり良い記憶がない。
 当然、幼稚園に行っていた子が殆どだったので、言葉の差・コミュニケーション能力の差が真愛を寡黙にさせたのだ。
 寡黙児の多くがいじめられる。
 虐められれば、更に人恐怖症になる。
 更に話さなくなる。
 一年生になったばかりの頃だろう。当時は「部落児童会」という「地区児童会」が開かれた日のことだ。
 真愛が教員になった頃は、6年生が一年生を迎えに行くシステムになっていたが、真愛の頃はそんなことはなかった。
 集団登校が始まったのは、真愛が四年生の頃からだった気がする。あったのかもしれないが、家畜診療所の用務員室に住んでいたり、市役所の用務員室に住んでいれば、地区の子供は仲間に入れてくれない。
 ご想像の通り、地区児童会が始まっても、どこに行ってよいか分からず、学校中を泣きながら歩いた。
 その様子を先生が見つけ、兄のいる教室に連れて行ってくれた。役員をやっていた兄は、一瞬、恥ずかしそうにしたが、
「何やったんだ!」
と怒った。
 家では優しいお兄ちゃんが、怖かった。
 学校では泣いちゃいけないのだと思った。

 同じ一年生の時だ。
 授業中に消しゴムを落とした真愛は、屈んでそれを拾おうとした。
 消しゴムの真上に座っていた男の子は、運動神経がよかったのか、イタズラ坊主だったのか、4本足の椅子の2本を上げてそっくり返っていたのだ。
 消しゴムを拾いに出した真愛の右小指の上に、上がっていた椅子の足が降りてきた。
 きっと痛かったと思うが、真愛は泣きもせず、「退けて。」とも言わず、黙って屈んでいたのだ。
 それに気付いた先生が、
「あんた。退けなさい。」
と大声で叫んで、男の子を突き飛ばしたことを覚えている。
 病院なんか行けるお金もなかった。
 今も右手小指は少し曲がっている。
 奇妙な子だったのだ。
 負のスパイラルはどんどんそこに向かって落ちて行く。どん底まで落ちないと止まらなかった。

ペンペン草も愛しい

 いつからこんなに強くなったのだろう。
「自分の心を言葉」に変換できるようになり、
その思いを家族以外の他人が理解してくれた時に変化したと思う。
 小学校4年生の3学期の最後の日だった。

 O先生は、毎日のように作文を書かせて、毎日のように本の読み聞かせをしてくださった。
(考えてみれば、厚洋さんのような先生だった。)
 誰にも同じように接してくれた先生だった。
 そんな先生から、通知表の特記欄に長い長い手紙を書いてもらったのだ。
「あなたがどんなに切なかったか、
 先生が気づいてあげられなくてごめんなさい。
 分からなかったではすまないのですが、
 ごめんなさい。
 最後に書いてくれていた作文の中で、
 あなたのつらさがよく分かりました。
 先生は君を担任しなくてもずっとずっと見守っ 
 ています。
 君の言葉には心があります。
 たくさんの言葉を学び、自分の心を素直に伝え
 られる人であってください。」
 通知表の裏を読んで、泣いたのはその時が初めで最後だった。
 O先生は、二学期の後半から体調を崩してお休みし、3学期の最後の週に出勤なさったのだ。
 だから、最後の作文の時間には「自由」題で1時間も書けたのだ。
 真愛は、溜まっていた思いを綴ったのだ。
[大好きな先生と別れるのは切ないこと。
 我が家の貧しさのこと。
 父がいない子供は悪い子なのか。
 鮫肌を天然痘と言われて悔しかったこと。
 人と違うことは悪いことなのか。
 先生がみんなと同じに扱ってくれたことが
 嬉しかったこと。
 などなど]
 その返事が準公簿である通知表特記欄への記入だったのだ。
 父のいない真愛が父のように慕っていた先生だったのだろう。舞い上がるほど嬉しかった。
 それからだろう。
「君の言葉には心があります。
 たくさんの言葉を学び、自分の心を素直に伝え
 られる人であってください。」
を自信を持って頑張ろうと思えたのだ。
 運命論者ではないが、運命のようにその学校は「全国図書館指導推進校」になり、素晴らしい図書館ができて、田舎の町には贅沢なほどの本に出会うのだ。
 本は買えなくても読めた。
 子供新聞まで置いてあった。
 本を読むと世界が広がるというのは、言葉を獲得するのだ。
 自分の心を自分が考えるとき、一つしかなかった言葉が、2つになり3つに…と広がり、どこでどんな言葉を使ったら「自分の心」をより表現できるか分かるようになり、お喋りになった。
 言いたい心が口から言葉になって飛び出してくれた。
 イジイジ内側に篭っていた言葉が、堰を切ったように流れ出た。
 心は変わっていない。
 意地けむしの妬みや嫉みやコンプレックス達磨のままだったが、それを隠して言葉での武装蜂起ができ始めたのだ。


 4月になれば、3月と違う環境に置かれる。
 その時に、自分を守るのは
「自分の心を素直に表現しても
 他人に理解してもらえる言葉」である。

 今の子どもたちは、小学校に上がる前に幼稚園や保育園で言葉のお勉強をしている。
 だからと言って、皆んな「自由に伸びやかに」新学期を迎えるとは限らない。
 真愛と同じように通えない子もいるだろうし、コロナ禍で十分に通えなかった子もいるだろう。
 家では真愛の母のように沢山話しかけ、話させ。沢山歌い、歌わせ。様々な体験をさせて言葉を増やさせてほしい。
 そして、自力で文字を読み、言葉を獲得することをさせてほしいし、自分の心を自分の言葉で話したり、書いたりさせてほしい。
 小学校の学習でも、大学の勉強でも、「言葉」を理解し、「言葉」で思考し、「言葉」で表現することに変わりはない。
 それが、平易な言葉か、専門用語かの違いでしかないと思う。
「それ。」
「あれ。」
なんていう代名詞だけではなく、動詞、形容詞、形容動詞、名詞、副詞、連体詞、接続詞、感動詞、助動詞、助詞をしっかり使って多くのことを伝えてほしい。
 そして、日本人が曖昧にしている「主語」と述語をはっきりと言える、自分の心を素直に伝えられる人に育ててほしい。
 人の心を読み取るのも言葉である。
 思いやりのある人の言葉が優しく豊かなのは、優しく豊かな言葉を知っていて、使えるからだ。
 言葉…。
 伝えられなくなってしまってからでは、切ないものだ。伝えられるうちに、伝えたい心をちゃんと伝えられる言葉と心を持ちたいものだ。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります