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夜桜や白きうなじのかすかなり

 我が家の桜が満開になり、ひとひら・ふたひらと散り始めている。今夜から雨が降るという
夜桜は見られても、雨の中。
 夜雨の桜もいいかもしれない。
 

 月は十三夜。
 未だ天中には達しない頃に見上げる月と桜は格別である。
 厚洋さんが元気だった頃から、彼の飲み屋さんからのお迎えの帰りに「夜桜見物」を楽しんだ。
 家に大きな古木の桜があるにも関わらず、遠回りして帰ってくれたのだ。今思えば、結婚してからの彼のデートのお誘いは、「デートしよう。」ではなく、「見に行くか?」「食いに行くか?」の疑問文だった。
 真愛が嬉しそうに反応することも、きっと喜んでくれたのだろう。
 真愛の厚洋さんとのデートは、「連れて行って!」「食べてみたい!」「写真撮って!」「ビデオまわして!」なんてというお願いばかりだった。
 しかし、彼が幸せと感じてくれたと思う一言がある。
彼が
「迎えに来させて悪いな。」
と言った時に、
「平気❣️だって、車の中では二人っきり、
 真愛の大事なデートの時間なんだもの❣️」
と言った覚えがある。
 この言葉以来、厚洋さんは、真愛に疑問文をたくさん言ってくれるようになった。

 小糸川に架かる幾つかの橋を横目に見ながら、遊歩道の終わるところまで、ゆっくりと車を走らせる。
 川沿いの桜並木は、ライトアップされていて幻想的に見える。
 厚洋さんが亡くなる年の「夜桜見物」は、いつも以上にゆっくりと走った。
 その時に、厚洋さんが詠んだ句が
「夜桜や 白きうなじの かすかなり」
である。
 
【厚洋さんは、名句を見つけては、小さなノートにメモしていました。
 そのノートにコンビニのレシートが挟まっていました。
 レシートの裏には、何度か推敲を繰り返した俳句が書かれていました。
 厚洋さんの句です。
 日付は、去年の3月27日。
 彼と飲みに出かけた帰りに、夜桜を見て帰ってきた時の句です。
 その年、まさか一人になるなんて知らない私は、川沿いの桜並木を彼がゆっくりと見られるように、花吹雪の中を、車でゆっくり走りました。
 そして、街頭に照らし出された大きな桜の木の下で車を止め、車から降りてくることの出来なくなった厚洋さんを置いて、花吹雪にの中で楽しく花びらを追いかけました。
 桜の花びらを地面に落ちる直前に手のひらで受け止めると、願いが叶うと聞いていたからです。
 闇の中で一生懸命、まるで雪のように舞う花びらを追う私の姿を見て、厚洋さんはどう思ったのでしょう。
 私の手のひらの桜より、うなじを見ていたのでしょう。
 花びらを追いかけている私のことを愛しいと思ってくれたのかもしれません。
 私を詠んでくれているのです。
 もうおばあさんになった私のことを、ちょっとだけ綺麗と思ってくれたのかもしれません。
 私の日記には、
「願いが叶うよ。」って言って、厚洋さんに花びらを渡せた。」と書いてあります。
 亡くなる5ヶ月前のことです。
 これからもメモや日記、彼の読んだ本の中から、彼のメッセージがたくさん出てくることでしょう。
 都合のいい思い込みですが、優しく愛しい時間です。
 (拙著 「白い花にそえて」より)】
 コンビニのレシートですから、きっと
「アイス食うか?」と買ってもらい、車を止めて食べた後の出来事だったのかもしれない。
 彼が亡くなって直ぐに書いた原稿だったので、悲しい事しか書けていない。
 今は、922日も経っているので、同じ思い出でも「楽しかったこと」や「面白かったこと」も思い出せるようになった。
 あの夜の「夜桜見物」は、デート❤️だったのだ。
「夜桜、見て帰るか?」
「アイス。食うか?」
 うんうんと頷き喜んでる真愛がいる。
 その真愛に言ってやりたい。
「あんたは本当に幸せ者だったんだよ。
 そして、そのまま厚洋さんを
 大事にするんだよ。
 そのまま愛され続けるから…。」
と。
 人は、今の幸せに気づかないものだ。
 そして、「幸せ」ってやつは、ゆっくりと時を重ねるごとに、心を優しく、温かく包んでくれるものだ。
 夜桜を月の光が浮き上がらせ、天に誘うように…。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります