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1471日 真半分の日

 厚洋さんが逝って1471日め。
 今日は昼と夜が十二時間ずつの真半分の日だった。
 秋分の日が過ぎて、気温は上がっても風は秋の風だからだろう涼やかな風が吹いて気持ちがよかった。
 我が家の萩の花は、みんな先溢れて葉だけになっていたし、厚洋さんが逝った年に挿し木した萩もみんな大きくなり枝を伸ばしていた。
 本当なら、
「萩の花と月見で一杯!」
と喜んでくれる彼がいないので、伸び放題の萩の枝を剪定して、来年は俳句の先輩たちもお呼びして月見が出来たらと思った。
 彼が愛した庭は、「季語集」みたいな庭になっている。
「真愛さんは幸せ。
 こんなに厚洋さんに愛されて!
 旦那さんも同じ!
 あんたみたいな可愛い嫁さん
 もらったんだから…。」
と言ってくれる俳句の大姉様達を招かないではいられない。
 そのためには、手入れをしないと(俳句の庭状態)に保てないのだ。

 伸び放題になった萩の木を剪定しながら、以前、厚洋さんが教えてくれた千利休の話を思い出した。
「千利休が庭に咲き誇った朝顔が見事なので、 
 秀吉に「朝顔を眺めながらの茶会に参られ
 よ。」と誘う話だ。
 秀吉は
「利休が誘うほどだから、
 どんなに見事な朝顔であろうか。」
 と楽しみにして行くんだが、
 利休は、秀吉が来る前に、庭に咲いた見事
 な朝顔の花を全て切ってしまうのだ。
 秀吉が利休の屋敷を訪れても、朝顔は一輪も
 咲いてない。
 そして、一輪だけ、茶室に朝顔が飾られて
 いるんだな。
 一輪であるがゆえに、
 侘びの茶室を見事に飾るって話。
 でもさ、傲慢だよね。
 侘び寂びの世界は利休の世界観だろう?
 秀吉の金の茶室も大嫌いだけど…。
 俺は、自然に咲いた一番初めの一輪が
 一番可愛いと思うし、
   寸足らずの小さな端っこに咲いた朝顔も
 好きだ。
 みんな枯れてしまった後の種ばかりの中に
 咲く最期の一輪も悲しいほど愛おしいと
 思わないか?
 俺は、お茶の侘び寂びは分からん。
 折角咲いた花をなぜ切る?」

 真愛は、草取りや庭木の剪定をする時に必ず、この話を思い出す。
「花は人のために咲いてる訳じゃない。
 自然の美しさは自然の中にあってこそだ。
 でもさ、朝顔だって育てたから美しかった
 のだろう。俺は自分で咲かせた朝顔は切れん
 手入れをして美しく咲かせたんだ。
 でもな。お前みたいに草取りせんで、荒れ果 
 てていたら、
 一輪の朝顔も見つけられないよな。」
って笑っていた。
(草取りをしろというのか?
 自然のままの状態がいいのか?
 厚洋さんがどちらを望んでいるかがわから
 なかった。だが、一度手をつけたものを
「放置状態」にすることは、二人とも嫌い
 だったので草取りや剪定をした。)

「あれば絶対何かを伝えたかったんだ。
 因縁の二人だもの!」と付け加えて、蘊蓄を聞かされるのも毎回であった。
 確かに、利休の美学も理解できるが、相手である秀吉は天下人。
 それも今では、ふんぞりかえったギンギラギンの侘茶ではない茶人。だから、
 沢山の首を刈り取り、一人咲いているのが、 
 天下人の秀吉殿、あなたなのですよ。

 と言いたかったとすれば、
 その後、秀吉に殺されてしまう利休の抵抗と
も思えるなんていうのだ。
 奢れるものは久しからずだ!

一輪だけ咲かせた

 剪定作業では、折角ここまで伸びたのに…。 
折角咲いているのに切らなくても…。といつも思う。
 だから、我が家の草木は伸び放題なのだ。
 暫くやらなかった庭の手入れをした。

金木犀

 彼岸花が咲き終わり、萩の花が咲き溢れ、微かに金木犀の花の香りが漂う中の剪定だった。
 今年は、金木犀の花が咲くのが遅い気がする。
 4年前は、厚洋さんのお通夜の日の朝に咲き、真愛は急いで木犀の花の絵を描き、厚洋さんに贈る詩を書いたのを思い出す。
 金木犀が咲くと厚洋さんに抱かれている気がするのだ。
「今年も頑張ったね。」って。
 ひょっとすると、真愛の一年は、9月16日から新しい年になるのかもしれない。
 そんな事を考えながら、剪定を終えて玄関前の草取りをしていたら、芝生の中の飛石がほとんど見えなくなっていた。

2019.3.19

 元々、芝生を植え直したのは、2013年の春だ。2人で今までの芝生を剥がし、土を平らにして「高麗芝」を敷き詰めた。
 夏の盛りに青々と生えた芝生の上に朝露が付くのが美しいと言ってくれた。
 芝刈り機も買った。
 しかし、6年後には芝生も心もボロボロになっていた。
 喜んでくれる厚洋さんがいない事。
 生きる気力が無いことは、庭の手入れなどしなくなる事。
 2019年。厚洋さんが逝った翌年の春。
「彼の愛した庭を守る」と決めて、荒れた玄関前の芝生を植え替えたのだ。
 それから、3年。

見えない飛石

 芝生は伸び放題。
 飛石の角は完全に芝で見えなくなっていた。
 今日は、昼間と夜とが同じ時間。
 そんな日は、一日中庭の手入れをしながら、厚洋さんの事を考えるのも悪くないと思って、飛石を掘り起こし、そこに山の土を入れた。

猪の後みたい。

 剥がしながら、具合の悪くなった厚洋さんが、この飛石を歩かずに、芝生を歩いて上の柊の道を使い始めたのは58歳の頃だと思い出した。
 階段を登るのが辛くなり、平坦な所を歩きたかったのだ。にも関わらず、真愛は、辛くなった厚洋さんに飛石を敷いて芝まで敷き直した。
 大好きだったのに分かってあげなかった真愛と、大好きだったから我慢して付き合ってくれた厚洋さんを思い泣きたくなった。
 だいぶ遅くなったが、飛石を外して庭を平らにした。
 厚洋さんの年を追いかけるように、真愛も年をとり、飛石を歩かず階段を使わず、平らな「柊の道」を歩くようになった。
 彼の年になるに従って、彼の思いがよく分かる。分からなかった真愛の申し訳ない思いを伝えたいと思う。
 本当に伝えたいことは、伝えられなくなって気づくのだと思った。
 昼と夜が真半分の日に金木犀の香りに包まれながら、ずっと外で秋の陽に当たっていた。
 1471日めだった。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります