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本当は今日が七夕?

 明治6年五節句が廃止される前の日本の風習
七夕は、旧暦の七月七日に行われた。その日は、月齢およそ6か7。船のような形の月が南西の夜空に浮ぶ。 
 天の川を月が渡ると考えると、カササギ(白鳥座)に渡して貰うより素敵な感じがする。

七夕飾りは、現代のように軒下に飾るのではなく、色紙短冊等を付けた葉竹を屋上にたてていたとされる。
 真愛が作った物とは随分違う。
 また、七遊と呼ばれる七種類の遊びを楽しんだという。
 七月七日 七遊。
 これは、南北両朝の頃より始まったそうだ。 
 基証は七月にもなりぬ雲々、
七百首の詩、
七百首の歌、
七調子の管弦、
七十韻の連句、
七十韻の連歌、
七百の数のまり、
七献の御酒、
— 『古事類苑』ー歳時部七月七日–七遊
『古今要覧稿』に書かれているそうだ。 

 割り切れない7のめでたい数で、とことん文学・芸術・スポーツに興じている。
 更に、七献上の御酒・・・は、当然酒盛りになるのだろう。何かに託けて「遊ばなければならない」と考えたのが面白い。
 厚洋さんの理想の生活だと思う。きっと天上では酒盛りだね。

「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒。これは、お盆やお施餓鬼法要で吊した5枚のお札の色だ。なんかの関係かな?
 中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるすそうだ。
 さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされている。 
 サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するという。
 7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に
「たなばたのとわたるふねの梶の葉に
  いくあきかきつ露のたまづさ」
とある。

で、ちゃんと里芋の露をとりに行ったら、 
「カラカラ」でした。
当分、真愛のお習字は上手にならないようだね。

 作られた笹を7月6日に飾り、一晩楽しんで、翌7日未明に海に流すことが一般的な風習だったそうだ。
 しかし、今やったら、不法投棄で捕まってしまう。川も海も汚しているのは人間だものね。 
 そこで、真愛は燃すことにした。
「紫煙となって天上に登ればいいなあ。」
と。
 しかし、それも二酸化炭素なので温暖化の促進になっちゃうよね。 
 環境汚染を考えると、色々な風習が出来なくなってしまう世の中になった。

 七夕が中国から伝わった風習という事は分かったが、一つのことが伝わると、伝わった側での環境と理解がそのことを変化させていくのは、今も昔も変わらない。
 大韓民国では七月七夕(칠월칠석、チルォルチルソッ)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられているそうだ。
 その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。
 こういう解釈も素敵だ。晴れても雨でも会えるのだもの。

その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョンとヘッグヮイルを供え、女性らはチャントッテの上に水を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。
 また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。

 
 中華圏では、以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかった。
 女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。
 だから、毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかな心と器用な手先を得て、良縁が得られるように祈ったと言う。
 これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来。
 現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。
 多くの商店や人々は「中国のバレンタインデー(情人節つまり恋人の日)」と呼んでいる。 
 
 江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。
 月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」をするそうだ。 
 やっぱり月の光は願いを叶えてくれるのだ。

西南では、爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあうことを願うという。
 「若さを願う」事もいいなあ。

 膠東地区では七夕に七神姐を拝む。
 女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。

 広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)
 6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作った。
 七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置いた。
 女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。
 また針に糸を通して乞巧をしたり、北斗七星や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。
 深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎えるという。

 閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日にザクロとシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとしたそうだ。

 台湾では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされている。
 七娘媽は子どもの守護神で、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」と「床母衣」を焼く。
 また台南や鹿港では做十六歲という成人式をこの日に行う。
 近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされているそうだ。

 現在の香港では、少数家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るらしい。

「星祭り、七夕」と思っていたが、女の人が家事を上手に出来る様にしたり、良縁に恵まれることであったり、家族の無病息災だったりと切実な生活への思いだ。
 形だけ残っても、商戦化していたのでは悲しい。
 女の人が中心の風習であることが嬉しいが、その元になる中国で、「誰が」「何故」「どんなことから」その話を作ったのかが知りたくなった。
「物事のはじまり」の想いをその時代に戻って確かめることができたら面白いだろうなあ。

 今夜はゆっくり夜空を見よう。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります