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呼び名

なんかのコマーシャル映像だった。
「パパ。見て!」
って、花を見て喜ぶ女の人。
その手をパパがぎゅっと繋ぐんだ。
親子⁈
女の人は、どう見ても40過ぎ。
パパも40か50代?60代かな?
何しろ、気持ち悪い親子だと思った。
 しかし、ラストのアップ映像は、結婚指輪がキラリと光って、「幸せ感」満載。
ようやく気づいた。
「親子じゃなくて夫婦だ。」
厚洋さんがいつも引っかかっていた「呼び名」
が変なのだ。

厚洋さんと一緒にスーパーにお買い物に行くと、魚屋さんが呼びかける。
「お父さん、お父さん。新サンマが入ったよ。」
厚洋さんはムッとしたまま、欲しいサンマに手を出さないで、
「俺はあんたの親父じゃない。」
と、ぼそっと言う。恥ずかしくて反論はできないが許せないのである。
ご近所のスーパーや本屋さんは、「先生」と呼ぶ。実際に先生をやっていたのだから、納得して返事をしていた。

 真愛が厚洋さんと知り合ったのが、教育実習生と指導教官(体育科のみ)だったので、お付き合いの最中も結婚してから3ヶ月は、「先生」と呼んでいた。
厚洋さんは、「オイ。」とか「ねぇ。」だった。人に紹介する時は、「正子」だった。
が、夏休みに北海道の親戚周りをし、実家に帰った折、義母も親戚のおばさんも「まあちゃん」と呼んでくれ、その呼び方を恥ずかしそうに使っていた。
不思議と男性陣は「正子さん」義父も「正子」だった。
結婚して3ヶ月後から、真愛のことは「maa」
厚洋さんのことは、「先生」だった。

 しかし、子供が生まれて困った。
 真愛の母に息子を頼むので「お母さん」では、厚洋さんが息子に「お母さんの所に行って」と言うのではお母さんが2人で、息子が混乱する。
 そこで、厚洋さんのことは「パパ」私のことは「ママ」にしてと頼んだ。
「俺はアメリカ人じゃねえ。」
と言ったのはご想像の通りだ。
そして、何と上手いことに彼なりの解決策を生み出した。
「ママ」ではなく「ma」だった。
恥ずかしげもなく「maa」と延ばして呼ばれた。俺の嫁の「まあちゃん」で、息子の「ママ」だったのだ。私も厚洋さんを「お父さん」と呼んだ事がない。私の「お父さん」じゃないからだ。息子も成長するにしたがって「パパママ」から「父さん・母さん」「お父ん」お母ん」と呼び方も成長した。

 子供が巣立ち、母が逝き2人きりになってからは、完全に新婚に戻って「厚洋さん」「maa」と呼び合った。ふざけて「厚ちゃん」と呼ぶこともあった。
 身体の具合が悪くなってから、介護疲れで
「私は貴方の家政婦じゃない。」
と泣いた時、
「maは俺の大事な嫁さん。」と抱いてくれた。
 入院してから、彼の日記(メモ)を見つけた私は、恥ずかしがり屋な厚洋さんが、ずっと私を思っていてくれていることに気づいた。

↑マーカーペンは、真愛が泣きながら厚洋さんの思いを辿った時の跡だ。
 この後8/2に緊急入院入院した彼を看取るまでの45日間。
「厚洋さん・厚ちゃん」「maa・まあちゃん」と呼び合った。

↑これは、病院で彼のメモ帳に手紙を書いた最初のページだ。
 愛しい人を「お父さん」なんて呼べない。

↑世界中で一番幸せな「命がけの恋」をしていた2人です。《「白い花にそえて 文芸社」の中に詳しく書いてあるので読んで下さい。》
 入院中、新しくした携帯の使い方が分からなくなった厚洋さんが
「妻に電話をかけたいのだが、どうすれば良い  
 の?」と尋ねたそうだ。
 真愛の事を「こいつ・同居人」って、人に紹介していた彼が「妻」と呼んでくれたことが、誇らしくもあり、嬉しくもあり、愛しくて堪らず厚洋さんに「愛してる💕」を何度も言ったことを思い出す。

亡くなってからは、「厚ちゃん」と呼ぶことの方が多い。
 「同居人」と呼ばれていた事も嬉しく感じるようになった。真愛を教師として、人として育て続けてくれていた人「先生」であり、真愛も厚洋さんも伸びやかに自由に生きている中で万年恋人同士であったのだから、同棲中の同居人なのだ。
 従うものでも、従わせるものでもなかったのだ。
 呼び名とは、その人の考え方だと思う。

 おっと、厚洋さんを「お父ん」と呼んだことがあった。
 我が家の愛猫チャーちゃんに
「ほら、お父んの所に行って!」
って言ってた。厚洋さんは思っただろうなあ。
「俺は猫の親父じゃねえ!」

と。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります