見出し画像

未来

 未来の別名。
 弱者にとっては「不可能」(できない)
 卑怯者には「不可知」(わからない)
 思想家と勇者には
     「理想」(もとめつづけるのぞみ)
 未来がどうなるかは自分次第であるということを、あの「レ・ミゼラブル」の著者であるユーゴーが「未来にはいくつかの名前がある」と言ったらしい。
 ユゴーは、「人生には、さまざまな苦難がある。」「どんな人も、何らかの苦難がある。」
と言う。
 その苦難に対して、
(1)諦めるか
(2)傍観するか
(3)飛び込んでいくか
 これによって「未来」は大きく変わるという
(1)何かあると、すぐに、″できない″
   ″私には力がない″とあきらめる人。
それは「弱虫」である。
 その人にとって、未来は「不可能」でしかない。何ひとつ素晴らしいものを生めない。
 したがって、幸福もない。

(2)手をこまぬいて何もせず、
   ″私は知らない″
   ″私には関係ない″と傍観する人。
それは「卑怯者」である。
 その人にとって未来は、いつまでも「不可知」なまま、わからないままである。
 行動しないのだから、結局、受け身の人生である。
 晴れやかな喜びはない。
 無責任なのだから、充実もなければ、向上もない。
 最後はやっぱり幸福はない。
(3)″断じて私は負けない″と雄々しく現実の真っただ中に飛び込む人がいる。
 ユゴーは、その人こそ「哲人」であり「勇者」であると言った。
 その人にとって未来は、「理想」として現れると論じている。
 理想を持つから飛び込めるのであって、飛び込むから理想に近づけるのだ。

 若い頃歌った「太陽がくれた季節」の歌詞を思い出した。
🎶君は何を今 見つめているの…。
   逃げてゆく白い鳩 それとも愛

🎶君は何を今 待ちつづけるの…。
   とどかないあの手紙 別れた夢

   君も今日からは ぼくらの仲間
  飛び込もう 青春の海へ


 三つの生き方に三つの未来。
 心ひとつで、行動如何で、
       未来は変わっていく。
「臆病にては叶うべからず」
「願いは、叶わない。」
 そう、やらなければ何も変わらない。
 ユゴーは
「弱虫よ黙れ! 卑怯者よ黙れ!」と。
 ″あきらめの心、傍観の心、それを打ち破ろう。我が「理想」へと、未来の征服に出かけよう!”
と言ったらしいが…。

 未来が「不安」な真愛はいったい何者なんだろうか。
 明日のことを自分で切り開くのではなく、他者に依存しているいい加減な奴なので、「不安」なのだ。
 自分のしたい事をして、自由で、伸びやかにしているようで、運命という時に依存している者なのだ。

 死ぬ事も出来ず、かと言って、生きる事も出来ていない気がする。
 何もしなくても、地球が周り、真愛の心臓が動いていれば、明日目覚めてしまう。

 いつも通り、掃除をし、洗濯をして、厚洋さんにご挨拶の般若心経を唱えて、ヨーグルトを食べて薬を飲む。
 水・土曜日にゴミを捨て、金曜日に資源ごみを出す。
 ゴミだって真愛が生きているから出るのであって、いい加減な生き方でもゴミが出るのだ。
 未来があるのではなく、現在の産物としてゴミが出ているのだ。
 草が延びれば追いかけるように草取りをする。せっかく厚洋さんが建ててくれた我が家を守り、厚洋さんが愛した庭を保ちたい。
 天候と体力を考えて保つための作業をする。
 その体力をつけるために(ちゃんと自力で動けるために)スポーツジムに通っている。
 一月分の支払いに見合うだけのジム通い後したい。
 未来というより保持するための生き方である。
 土曜日の午前中に「日本語教室ボランティア」に行くことと国際交流龍協会のボランティアをする事が、人のためにしていることのようだ。
 若い頃には、未来は「夢」(やりたいこと)に向かって、困難な海にも飛び込んだ。
 しかし、今は、「現状維持」で時の流れに依存している者なのである。
 今が幸せだから(困難な状態ではない)真愛は依存なのだ。
 だからと言って、今更、わざわざ困難の海に飛び込みたくはない。
 ユーゴーの言葉を知り、真愛の未来の別名は(夢)としたいと思った。
 幸せな真愛であると感じながら、少しでも人のためになる行動をして、ちょっとだけ今の自分よりもステップアップをして、彼方に行った時に
「真愛。
 よく頑張ったな。
 最後まで、
 俺の一番好きな真愛だったぞう❣️」
と、厚洋さんに言ってもらえるようにしたい。
 それこそ真愛の「未来」である。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります