残照
東山魁夷氏が「残照」を描いた場所に立って残照を見た。日本画を始めてから見ると何度も見ている風景が違って見えるから不思議だ。
我が街の文化ホールの緞帳は東山魁夷の「残照」が描かれている。
それは、我が街の絶景「九十九谷」を描いたと言われたためである。
1945年11月に魁夷氏の御母堂が死去すると千葉県市川市に移った。
市川では、馬主として知られる同地の実業家である中村勝五郎から住居の提供など支援を受けていたそうである。
1946年の第1回日展には落選し、直後に結核療養中だった弟さんも死去。
東山魁夷氏は当時の境遇を「どん底」と回想
「これ以上落ちようがない」と思うとかえって気持ちが落ち着き、「少しずつでも這い上がって行く」決意を固めたという。
そして、描きあげた作品が、1947年の第3回日展で、鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が特選を得て日本国政府に買い上げられる。
そこから評価が高まり、風景を題材とする決意を固め独自の表現を追求したという。
真愛は、十数年前、兄の産土様である「千葉中山の鬼子母神「法華経寺」にご祈祷に行ったことがある。
その帰り道に東山魁夷美術館を見つけて立ち寄った。
以前から、「残照」については知っていたが、我が街との関わりを学芸員の方と話すことができ身近に感じた。
帰って来て厚洋さんに話すと、
「今日の残照も見に行くか?」
と誘ってくれた。
残照を数分見て、その後は鰻屋「つたや」で長い時間を過ごして帰って来た。
美術館の残照とモチーフになったと言われる風景が似てない気がしたのを覚えている。
魁夷氏は、市川出身の方ではないが、市川に来てから大成した方である。
だから、市川市の名誉市民であったので、鬼子母神様の近くに美術館が建てられていたのだ。
(余談だが、その美術館内にあるレストランの
ランチが美味しかった。精養軒でシェフをし
ていた方のカレーライスとハヤシライスが
絶品。何年も行ってないが
まだ、あるのかな?)
こう考えるて来るとやっぱり「ご縁」という「時の流れ」に身を任せて、その時々を精一杯の生きることが、今の真愛を作り上げている気がする。
作品の残照と真愛の見た残照が違うが…?
東山魁夷氏39歳の冬。何かに導かれるように鹿野山の頂へと至ったと記されている。
「足下の冬の草。
私の背後にある葉の落ちた樹木。
私の前に果てしなく広がる大と谷の重なり。
この私を包む天地のすべての存在は、
この瞬間、私と同じ運命に在る。
静かにお互いの存在を肯定し合いつつ、
無常の中に生きている」
絶望の淵で東山魁夷が見たもの。
それは命の輝きだった。
運命的な風景を深く胸に刻みながら筆を執る
そして描いたものが「残照」(1947年)
縦151センチ×横252センチ
冬の陽射しを浴びた山並みが幾重にも重なり合いながら、なだらかに遠くへと続いている。
手前には暗く茶褐色に彩られた山肌。
それが次第に青紫へと色を変え、
遠くの山の斜面は夕陽を浴びて仄かな薄紅色
に染まっていく。
山並みの上に広がるのは、美しく澄み切った
雲一つ無い冬の空。
その風景は見る者に無限の広がりを思わせる
この絵は見たままの風景ではなく心象風景である。残照に映える中央奥の山は、青春時代に訪れた八ヶ岳をモチーフにしているという。
実際の風景画ではないのだ。
そんな訳で、我が街のホームページには、
「鹿野山は、東の白鳥峰(379m)
中央の熊野峰(370m・薬師峰ともいう)
西の春日峰(353m)からなり、清澄山、
鋸山と並び房総三山に数えられている。
古くから神仏ゆかりの地として知られ、
山頂周辺には、歴史的に貴重な白鳥神社や
神野寺本堂及び表門がある。
白鳥神社下の九十九谷展望公園からは、
高宕山などの上総丘陵が幾重にも連なる
山並みの風景を一望でき、
それらを総じて「九十九谷」と呼び、
大町桂月は「天下の奇観」と激賞し、
東山魁夷画伯は、出世作「残照」を描いた。
特に、夜明け前から日の出直後と日の入り前
の情景は素晴らしく、九十九谷の山並に
浮かび上がる雲海が眼下に広がり、
その姿はまるで墨絵の世界である。
また、紅葉の時期には、緑と紅の鮮やかな
コントラストから、徐々に山全体が紅に
染まっていく。」
と記されている。
山の稜線がはっきり見える。
あの稜線の先端の杉の木のてっぺんの葉の陰影を見たいと思った。
自分の掌を真っ直ぐに差し出すと、稜線と同じように小さな陰影がはっきり見えていた。
欲しいものは、いつも自分の側にある。気がつかないだけだ。
キーズで知り合ったアマンダさんと「残照」を見に行ったが、入日はずっと北西に落ちていきその姿は神野寺方向に隠れてしまっていた。
「山の残照もいいけど、
海に沈んでいく、入日も見たい。」
と思って、急ぎマザー牧場まで車を走らせた。
閉園ギリギリで入園し、猛ダッシュをして、観覧車に乗った。
鹿野山にはよく遊びに来たが、高いところが好きではない厚洋さんは観覧車には乗らなかった。
このエリアが出来たのは、子どもが大きくなってからのことなので、2人暮らしになってからの事。
マザー牧場の夏の花火を見たり、ジンギスカンを食べに来たり、冬のイルミネーションを見に来たりともっぱら大人仕様であった。
観覧車が一周を終える頃には、稜線はくっきりと影になり、陽は雲の中に沈んで行った。
不思議なことに、沈む夕日を見ても悲しくならなかった。厚洋さんを思い出し、アマンダに話を聞いてもらったが、悲しくなかった。
一人なら、きっと涙ぐんでいたのだろう。
美しい風景の中にいても、その時誰とそれを見るかで、その風景の感じ方が違うのだ。
数分前に見た「九十九谷の残照」も、人生のどん底にいた者の感じ方と外国の人にその良さを知らせようと思っている者の感じ方とは、大きく違うのだ。
ひょっとしたら、「不幸のどん底」にいる人だからこそ、その感性が研ぎ澄まされ、素晴らしい作品を生み出すのかもしれない。
だからといって、真愛は良い作品のために
「今の幸せを手放したくはない。」
と思っている。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります