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虹が立つ

 梅雨が明けて夕立が増え、虹がよく見られるようになったと書き出してある新聞を読んだ。
 文豪ゲーテは言った。
【太陽に映える色とりどりの輝きこそ、
 我々の生ある。】と。
 虹は短色ではない。
 人生も逆境や困難を乗り越えることで、それが様々な色彩となって美しさを増すと言うのだ。
 納得した。
 文章は続く【雨に濡れても濡れても、それでも太陽に向かい続けたとき、虹は立つ。水滴が多いほど虹は鮮やかになる。流した。汗と涙が大きいほど、勝利の虹も鮮やかに立つ。】
 だから、何事にも希望を捨てず、前へ前へと進む。その人の前途には、燦然と輝く栄光の虹が待っている。
 アテネオリンピック主題歌になった「栄光への架け橋」みたいな感じがした。
(そうだね。そうだね。)
と思って読んでいるうちにふと首を傾げた。

 真愛が3年前に書いた 
  「三舟山の山ゆり」の詩「蕾」

夢は蕾の中で育った
ゆっくりとふっくらと
線状降水帯は叩きつけた
つぼみの首を

夢はため息のように吐き出された
頭を垂れ
噎せ返る香を振りまく前に

蕾よ。
顔を上げてごらん。
青空が見える。
雨が過ぎた後の青空が見える。
あなたは虹の麓にいる。
あなたには虹は見えないけれど、

街からは幸せの麓にいるのだよ。
さぁ、虹を渡ろう。
次の花を咲かそう。

富弘美術館コンクール「入選」

 この時、
「虹は太陽に背を向けた時に見える」のであって、虹の麓や虹の中にいる時は雨の中にいるのだ。
 雨と言っても豪雨ではないそろそろ止みそうな青空が近づいてくるその時なのだ。
と感じた事を思い出した。

 だから、太陽に向かい続けた時、虹が見えるのは己の後ろになのである。
 後光のようにその人の美しい色をそれぞれに放つのだ。(ゲーテがいう事は納得!)
 あなたの虹を見るのはあなたではなく、あなたを見る他者なのである。
 何だか、抹香臭くなってしまったが、どんな事も自分の喜び美しさのみを考えていたらあの幸せな世界には行けないのだ。

一緒に出席


 同僚の結婚式に二人揃って呼ばれ、彼等のファーストバイトの様子を見ながら話してくれた。
「真愛、
 極楽浄土に住む人たちは、
 みんな長い箸を使ってるんだぞ。
 地獄に落ちた輩は短い箸で食う。
 何故だかわかるか?」
「…。」
「極楽浄土の人々は、長い箸で別の人の口に
 美味しい食べ物を運んであげるんだ。
 お互いに他者を思いやる心のゆとりが
 あるんだな。
 地獄の輩は、テメェの事で精一杯。
 他の奴らに取られちゃあかんって
 がっついて、器を抱えて顔を近づけて
 食うんだ。
 だから短い。」
「分かった❣️
 厚ちゃんもあーんして。」
「馬鹿野郎!」
と言って真っ赤になった事を思い出す。

 極楽とは=幸せとは
 人のために、他者を思って行動した時にそれを第三者が見て輝いて見える事なんだ。
 己が己のためにしたことは、どんなに素晴らしい事であっても輝かしく彩る事はない。
 太陽と雨と虹。
 三者の織りなす美しい様をみる真愛が幸せになるのだ。
 それぞれは、ただひたすらにあるがまま。
 雨の中をひたすらに明るい方へ進む
 その時に
 真愛は虹色の後光の中に立つ

 それを見たものは
「幸せ」と思ってくれるのだろう。


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります