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1111日 厚洋さんの行きつけ

 愛しい人が逝ってから、1111日が経った。
「会いたいな。」って声を出して言ってもひとり。
 テレビは何も反応しないで、ひたすら総裁選後の党役員人事のニュースを伝えている。
 コロナになろうが、台風が来ようが、地震が来ようが、変わらないのが日本の政治体制なのだろう。革新的だった厚洋さんがこれを聞いたらなんというのだろう。
「いろいろな事を諦める時代なんだよ。」
っていうのかな。
 台風16号が南海上を進んでいるので、暴風雨警報・土砂災害警報発令中。
 お昼はあるもので…。
 何と冷やし中華になった。

この時期になると「冷やし中華終わりました。」
と壁にドンと貼られるお店があったのを思い出した。

 厚洋さんがよく通った「うめぇ醬」と言うラーメン屋さんだ。
 彼が亡くなって、お世話になった飲食店の挨拶回りをした最初のお店だった。
 マスターは、厚洋さんと誕生日が同じお友達のお友達なので、人見知りの厚洋さんでも入れたのだろう。
 若い頃の厚洋さんは、「津園」という仲間の中核料理店が好きだった。教員住宅の近くにありテイクアウトをしてくれたからだ。当時は「店屋物」といって、土曜日になると電話注文してくれた。
 しかし、今の山の中に家を建てると、遠くてテイクアウトNG。食べにいく事も無くなった。
 厚洋さんが退職した年に、2人で尋ねたことがあったが、味が変わっていた。料理人の代替わりだったのだ。
 昭和50年代にはいると、我が町の様子も変わり始め、芋畑だった所は住宅地になり、人口が増え、タヌキしか住んでいなかった所に飲食店が出来た。
 厚洋さんも車の免許を取り様々な所に飲みに行った。その当時は、国道沿いの「剣竜」っていうラーメン屋さんによく行った。
 厚洋さんの麻雀仲間だったらしい。本当に人見知りの厚洋さんらしい。黙って呑んだり食べたりするだけにも関わらず、自分が知っているところしか行けないのだ。(真愛の性格は、厚洋さんに育てられたのだろう。そっくりである。)
 また、真愛の初任の学校の近くの料亭の次男坊さんで、真愛とも話があった。
 カウンター席で、中華鍋を揺すり、炎が上がるのを見るのが好きだったようだ。真愛も喜んで見たし、何を食べても美味しかった。
 しかし、店主は厚洋さんよりずっと若いのに亡くなった。
 その後は、もっぱら「うめぇ醬」であった。
 ラーメンも餃子も我が家は家で作っていたが、2人きりになると
「時々は、外で食べたいだろう?
 ラーメン食いにいくか?」
って聞いてくれた。
 行けば「餃子」も「麻婆豆腐」も頼む。
 厚洋さんは、ちょっと食べて満足。
「もったいない!
 こんなに美味しいのに!」
と全部残さず食べる真愛。
 マスターもママも笑いながら見ていた。
 話をするのも真愛の方が多い。居心地のいいお店だったが、厚洋さんが亡くなって、ご挨拶に行った翌年に閉めてしまった。
 冷やし中華は、自分で作った。
 そして、厚洋さんが亡くなった後、彼の行きつけにお礼を言いに廻った事を思い出した。

↑「リーフ」と言う彼の大好きな理髪店だ。
 国道近くの場所にあったお店が、木更津に移動した。
 若い頃の厚洋さんは「床屋」にいくのが嫌い。
 お義母さんにいつも叱られていた。ところが、子どもができた頃から、きちんと散髪し時々は、ネクタイも閉めるようになった。明治図書出版や小学館出版でものを書かせてもらうようになり、東京に行く事も多くなったからだと思う。
 やっぱり、自分の居場所があるところに行きやすがったのだろう。「リーフ」が予約制であった事も彼好みだったのだ。
 こざっぱりした素敵なお店だった。
 この場所で髭も当たってもらって、
「ほら、ツルツルだぞー。」
って、真愛の手を持って触らせた。
 真愛も床屋さん帰りの厚洋さんの匂いが大好きだった。
 彼の思い出を、彼の生きた跡を追って、お礼を言って回った。

↑鹿野山にある鰻の老舗「つたや」さんだ。
 ここには、とんでもない思い出がある。
 真愛が初めて厚洋さんと一緒に行った時、
「えっ?奥さん?本当に?」
と言われて驚いたことがある。
 考えてみれば、同僚や後輩を連れてこのお店を訪れていたのだ。
 ここは、今の我が家から近い。ここに引っ越してくるまでは山の中の有名店でしかなかった。
 しかし、厚洋さんはこの家に越してくる前から、この地区の教員をやっていたので、人を連れて行く時や「どこに行く?」と聞かれれば、「俺の知ってる旨い店」と自慢がてら連れて来ていたのだ。
 女の人を連れて行った時に、この店のママは、
「奥さんは、何を飲む?」
と聞いたらしい。
 もし、真愛が別の男の人と行って、そう聞かれたら
「えっ。旦那さんじゃないですよ。先輩です。」
と答える。
 しかし、その人は、独身で
(スーパーで、奥さんって呼ばれているのと
 同じだと思った。)という。
 国語教師で、俳句も読むという賢い人なのに、言葉の持つ心を知らない人だったのだと思う。
 まあ、厚洋さんもカッコイイ頃だったので、そう言われて嬉しかったのかもしれない。
 モテる男の妻としては、我慢しなければならないことかなと、今なら思える。(以前は思えなかった。笑笑)
 その噂を大きく広げた従業員がいたらしく、厚洋さんの具合が悪くなった頃、思い出したように真愛の耳にも聞こえて来た。
 人の不幸は蜜の味。
 噂は、火がなくても流して欲しい人が、火をつければ、煙がたつのだ。真愛はその煙に振り回されて精神的に病気になって死にはぐった。

 ママもその後は、真愛をちゃんと奥さんと認識してくれたし、真愛が若い教え子と一緒に行っても厚洋さんには内緒にしていてくれたようだ。
 いや、従業員は嬉しそうに
「あそこの奥さんは旦那さんと同じで、
 旦那さんより若いツバメと遊んでいるね。」
といったかもしれない。
 もし、厚洋さんにそれが聞こえていたとしたら、知っても怒らなかった厚洋さんの包容力に感服である。

↑鰻の「喜田」さんご夫妻。
 このお雛様は厚洋さんがプレゼントしたお人形という。
 ご挨拶に伺った時に教えてくれた。
 退職後に一番多く行ったお店であり、真愛がよく迎えに行った2人だけのお店だ。
 ここのお店には、真愛以外の人とは来ていない。だから、ママさんともマスターともよく話をする厚洋さんを見ることができた。
 マスターが厚洋さんのような亭主関白なので、
「二人が仲良くするように。」
と持って来たそうだ。
 箱根駅伝の応援に行っていた時も、車は別の店に止めたのだが、帰りには必ずこのお店にお土産を持って現れた。
 マスターは何十年も前の「東洋大学のミニ旗」をカウンターに置いてくれていた。
 二人はいつも決まった席に並んで座り、他のお客さんの邪魔にならないように、耳元で話し合った。厚洋さんの鼓動を聞くぐらいの近さがいつも嬉しかった。
 この店のウエルカムフラワーは素晴らしく、花好きの厚洋さんはいつも楽しんでいた。
「いいな。この花!」
というとママは、
「先生。持っていけば?
 刺し木にしたら、つくかもしれない。」
と大きなツボから引き抜いてくれたという。
 我が家の萩の花もここから来たものだろうか。
 厚洋さんが亡くなってもここのお店には、よく訪れた。
 厚洋さんの教え子や真愛の教え子を連れてくるのは、気心の知れた「噂話をしない。」お店である。
 もちろん、鰻重は絶品であり、おもてなしには最高のお店である。
 しかし、コロナ禍になってずっと行けてない。

↑焼肉屋さんの柳家さん。
 厚洋さんの教え子さんのお店だ。
「年をとったら肉を食え!」という厚洋さんは、野菜派の真愛をよく連れて行ってくれた。
 迎えに行ったお店でコーヒーしか飲ませず
「帰りに焼肉行くぞ❣️」
といってくれた。
 今考えると、噂好きなマスターのいるRには、昔からの付き合いと言うことと、駐車場に車を置いて来られるだけの関係だった気がする。
 だから、この焼肉屋さんに行くと厚洋さんが良く真愛としゃべってくれる。
 嬉しいことに、焼肉を焼いてくれるのも厚洋さんだった。
 並んで食べる事が嬉しかった真愛も
「今日は焼肉屋さんに行きたい。」
とせがんだ事も多かった。

 ここは「鳥ひろ」のマスター、ひろみさんのお墓だ。
 厚洋さんと結婚する前から通った居酒屋さんだ。車の免許がない時も、タクシーで行ってタクシーで帰る厚洋さんだった。
 真愛か、「肉じゃが」を上手に作れなかった婚約時代に
「私もこの本で、肉じゃがが上手になったの。
 先生に作ってあげて!」
と教えてくれたのがママだった。
 カッコいい男のマスターひろみさんの話も好きだったが、あったかい笑顔のママが大好きだった。
 ひろみさんが亡くなったと聞いて、オイオイ泣いた事を覚えている。親戚でもなく、同僚でもなく、行きつけのお店のマスターに対して、こんなにも想いを寄せていた2人に気づいた。
 出会い・婚約・結婚・出産・育児・出版・退職と人生の全てに関わっていたお店なのだ。
 コロナ禍で、2年も連絡を取っていない。

 ケーキ屋さん「ロンシャン」。
 マスターに可愛がってもらった。
 真愛の骨折快気祝いの時に「足形ケーキ」を無理やり作らせたり、福野小の閉校式イベントに学校まで「ケーキ作り」を教えに来てもらった。
 死の床の厚洋さんが「ロンシャンのロールケーキが食べたい」と言ったが、急いで行った時には売り切れだった。
 マスターは、
「ごめん。これは特別とって置かなくちゃいけな
 い。
 保存用のサンプルだけどよかったら持っていっ
 て!」
と冷蔵庫から出してくれた。
 夕方6時、ほとんど売り切れ状態のケーキ屋さんでのことだった。
 ロンシャンさんも、今春、
 惜しまれながら、閉店になった。
 マスターはどうしているのだろう。
 ママも元気でいるのだろうか?

 彼の居場所は真愛の居場所でもあった。
 すでに閉店した「韓国料理店」「竹と月と宴と」「スナックアムール」「リバーサイド」「山麓」「本郷」「スズキ庵」「平野屋」「市川」まだやってるけど行かなくなった「花祭り」「九十九」「つかさ」「久留里の玉葱丼屋さん」
 彼の自慢の教え子さんがやっている「むらこし」さん。
 みんなコロナ禍で暫く行ってない。
 どうしているのだろう。
季節が巡るその時に、
「始めたよ。」
「終わっちゃうね。」
と伝えてくれて、ともに、
「嗚呼、季節が巡っているのだ。」
と共感できた「厚洋さん行きつけのお店」が恋しい。厚洋さんが恋しくて会えなくて、ぽっかり空いた穴を塞いでくれるかもしれない「行きつけのお店」に行きたい。


 一年中、おでんがあり、肉まんがある。
 お餅もあれば、ケーキだってある。
 苺だってスイカだって一年中ある。
 欲しい時には、なんとかすれば手に入る。
 欲しくても手に入らないものがある事を知らない人間が育つ。
「我慢して、待って、待って
 得られたお正月のお餅はおいしかった。」
 待って待って恋したっても、手に入れられない事もある。
 厚洋さんは帰って来ない。
 コロナ禍になり、彼の好きだった飲食店に行って、思い出の中で、彼の横に座ることさえ許されない。
 1111日。
 厚洋さんの行きつけのお店に行きたい。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります