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学力テスト

 学力テストが全面オンライン化になると聞いた。
 小学6年生と中学3年生を対象とした(全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)について、文部科学省は7月8日、2027年度から学習用端末を用いてオンラインで出題・回答する方式(CBT)に全面移行する案を有識者会議に示したという。

 学校や教育委員会から意見を聞いた上で、秋にも正式決定するらしい。
 学力テストは2007年度から国語と算数・数学は毎年。理科と中学英語は3年に1回程度行われている。
 段階的にオンライン化を進めており、2025年度は中学理科をCBCで実施する。
 文科省の案では、2006年度に中学英語の聞く話す読む書くの全技能でCB Tを導入。
 2027年度から小中の全教科に広げる。
 紙の問題冊子は廃止するとになるのだ。
 文科省はCB Tの移行の意義について、動画や音声、表計算機能などを用いた出題、解答が可能な点等を挙げている。
 国のGI G Aスクール機構で1人1台配備した端末を活用する。
 調査では多くの学校でインターネットの通信速度が課題となっており、同省は環境整備も急務だとした。

 こんなニュースが飛び込んできたのだ。
 50年前真愛が初任だったときの学力テストは紙の問題冊子だった。
 それが今日までずっと続いているわけだ。
 社会情勢が変わったのだから、それも致し方がないことだと思う。
 思い出すのは学力テストをさせることよりも学力テスト後の考察が大変だった事だ。
 学力テスト一覧表というのがあり、各小問の平均点や正答率などを出した。
 そこまでは何とかできだが、問題は偏差値を計算することだった。
 なんと真愛は偏差値の計算の仕方を思い出せず、学年主任に聞けば良いものを恥ずかしくて聞くこともできず「高校の数学の教科書」を引っ張り出して偏差値を算出した。
 泣きそうになりながら、気が狂いそうになりながら、数学嫌いな赤点をとって追試を受けた真愛が平方根を解いて偏差値を出した。
 後で学年主任にその話をすると
「学力テストの集計表の裏に偏差値計算表が
 載っている。
 それに数値を当てはめて計算機でポン!」
とすれば良いと教えてくれた。
 最初から聞けば良いものを…。
  いっときの恥で済んだものを…。
 子どもの一人ずつの素点を算盤で計算して、平均を出していた。
 そして、平均偏差がわからず、統計の復讐もした。最終的に平方根を開くことなんてもう完全に忘れていた。
 だから気が狂いそうになったのだ。
 そこで1月分のお給料を全部支払って、大きな卓上用計算機を買った。いわゆる電卓である 
 平均値と電卓があれば壱発である。
 しかし、今なら百均で買える電卓。
 あるいはスマホの中に入っている電卓。
 だが、当時は給料1ヵ月分である。
 数学嫌いの真愛はそれを買わざるを得なかった。結構でっかい黒いコードが付いている卓上用電気計算機である。
(まだ厚洋さんとは付き合っていなかった頃
 の話。婚約した後の2月の学力テストの後の
 厚洋さんのその計算の速さに驚いた。
 電卓の打ち込みの速さが尋常ではない。
 学力テストが終わった日にそのテストの考察
 まで終了していた。
 仕事の速さは天下一品だった。)

 今回、文科省が言っているCB Tを使った学力テストは、教員にとっては最高に楽なことである。
 しかし紙の問題冊子を採点することがなくなると、一人ひとりの子どもの丸つけをしながら、その子の理解できていないところや私の指導の手落ちを、自分でため息をつきながら理解することができなくなる。
 すべて集計表で終わった結果を見るのだ。
 考察という言葉に変えて、自分の手落ちを見るのだが、小文の中の4択のどこを多くの子が間違えているかということまではわからない。 
 4択のどれに間違いが集中しているかで、大きな自分の指導の過ちがわかるのだ。
 うまく伝えられないので恥ずかしい思い出を書く。

 小学校の高学年になると「理科」の担当の先生が必ずつく。
 その理科の時間が空き時間になったり、あるいは他のクラスの図工や音楽や家庭科を代わりに指導したりすることが多い。
 ところが、その年の6年を担任した真愛は、16年ぶりで理科を担当した。
 その時の生物分野の問題だった。
 解剖について鮒の解剖をするときに、フナの目をガーゼで追うのはどうしてなのか?
と言う問いがあった。
 4つあった中の正解は、[目を覆えば鮒の動きが収まり動かなくなる]と言うのが正答だった。
 他にもあったが、その正答に、我がクラスの子は2人ぐらいしか正解しなかった。
 その2人はよく話を聞く子ではなかった。
 ほとんどの子が何に回答したかと言うと、
⓷[鮒の目を見るとかわいそうになるから
  目を覆う]
に、ほとんどの子が丸をつけた。
 優秀な子もそこに丸をつけた。
 正答すると2点だから、我がクラスは平均点が2点下がった訳だ。
 平均点の問題ではない。
 真愛の指導の仕方がいけなかったのだ。
 まず、鮒の解剖に鮒使わなかった。
「体のつくりと働き」という単元のまとめとして「生きた魚の解剖実験」が選択実験として用意されている。
 学ばなければならない事といえども「生きているもの」を殺すのは嫌だった。
 そこで、悩み相談をすると
「魚屋に行って買ってきて
 魚を解剖したらいいんじゃないの?
 トビウオなんか、腸が少なくて分かり易い
 秋刀魚でやって後で焼いて食うのもいい。
 いいんじゃないか?
 生きてない方が…。」
と厚洋さんが教えてくれた。
 真愛はそれに乗った。
(そうだ。既に死んでいて
 いつも食べられるものだから
 買ってきた魚がいい。)

 そこまでは良かった。
 何とか教科書と見比べながら、鰓呼吸も分かったし、消化系もわかった。
 呼吸、循環、消化、体の仕組みがどう働いているかよく理解してくれた。
 授業は終わった。
 でも、その時に真愛はとんでもないことを言っていた。
「ねぇ、
 そういうわけで解剖は買ってきた魚にするこ
 とにするね。」
「えー。それでいいの先生?」
「うん。良くはないと思うけど…。」
「私さぁ。魚、触るのも嫌なんだよね。
 家で魚料理するでしょう?
 その時になんだか、さぁ…。
  魚の目玉が『食うのか、食うのか?』
 って恨めしそうに見てるような気がするの。 
 だから、魚は頭のないのを買ってくる。
 頭のある魚を買ってしまった場合は、
 旦那さんがね。
 魚をさばくんだ。
 私は魚さばけないなぁ。
 なんかさぁ…。にらまれてるみたいで。
 なんか、かわいそうで…。」
と言う話をして買ってきた魚にしたんだ。
 わがクラスは賢い子が揃っていたので2点位のことでは、他のクラスに平均点は負けなかった。
 賢い子たちが多いと知識の面ではしっかりと点数をとってくれる。
 大体小学校の学力テストなんて考えることよりも記憶することの方が多かった。
 だから賢い我がクラスの子供たちは、先生の魚の目を見たらかわいそうと言うことをしっかりと記憶したのだ。
 小問のどこに間違いが多く集中したか。
 それは私の指導法の誤りである。
 学力テストが終わってからその子たちには謝った。
 魚の目を見てかわいそうと思うのは心の問題で理科の学習のテストの意図は目を覆えば動物の動きが鈍る。
 魚の動きが止まると解剖はしやすくなるということを教えたかったのだと話した。
 当然、謝ったが子供たちは大人になってもそれを言う。
「俺たちさぁ。解剖、さんまでやったよね。
 魚の目がかわいそう。
 そりゃ思うよ。
 だって金子みすずが大好きで、
《大漁》なんて詩を読んでたらね。」
 「浜はまつりのようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰮のとむらいするだろう。
  ってね。
  何万の弔いをしているって思うもん」
「いいんじゃない?
 大人になってどっちが大事か、
 両方大事だと思うよ。」
「知識としてもね。
 だけど金子みすずの詩や魚がかわいそう
 って思える。そんな自分も好きだよ。」
と言ってくれる。(半分バカにしながら)

 学力テストがCB Tになったら、自分の指導の曖昧さを、指導の間違いをしっかりと把握できる教員が少なくなるのではないだろうか。
 真愛は学力テストと言うのは子供にやってもらう「自分の指導の手落ち」を探すものだと思っていた。
 学力テストって一体何なんだろう?
 高齢者講習の認知症テストのように繰り返しやったら覚えてしまうような。
 そんなテストならばテスト自体いらない気がする。
 知識の定着を確認し、それを補充するためのものなら良いが、4択テストでその人間性まで推しはかろうとする人種がいるという事も事実なのである。
 テストなんかで人はわからない。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります