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フリージア

 たった6輪しかないフリージアを部屋に飾った。
 室温は20度。
 フリージアの「無邪気な香り」が、邪〔よこしま)で、打算的になった真愛の脳〔海馬)から、胸の中から、心の底まで満たした。
 吸って吸って、吸って!
 吐くのを躊躇うように、フリージアの香りを楽しんだ。

 真愛がフリージアの香りを好きになったのは、高校の卒業式の時だった。
 何十年も前のことである。
 卒業式当日に遅刻する奴も珍しいと思うが、真愛は何故だかギリギリに会場に入った。
 3月の初旬、まだ体育館の空気も冷たかった。
 遅くなった真愛の胸にも、後輩がコサージュをつけてくれた。黄色のフリージアだった。
 式が始まり、校歌を歌っていた頃だろうか、
良い香りが顔の周りを包んでくれた。
 女子校のような普通校。
 家政科ということで、若干の学歴コンプレックスを抱えながらも、リーダーもやらせてもらい、全国大会にも行けた。
 大好きな男の子にマフラーを編んで、もらってもらったちょっとの恋心も体験したseven teen
 泣くはずのなかった卒業式だったのに、フリージアの香りの流れる中で、素直になった。
 それから、結婚するまで
「好きな花はフリージア。」
 いや、結婚してからも、6年生の担任になり「卒業式」には必ずフリージアをプレゼントした。
「ずっとずっと、無邪気な心を忘れないように」
と。

白い花の絵

 さて、こんなに心震わせる「香・匂い」を感じるのはどこなのだろうか。
 鼻からにおい物質が入ると、におい物質は鼻腔最上部の嗅上皮と呼ばれる特別な粘膜に溶け込み感知する。
 すると、嗅上皮にある嗅細胞が電気信号を発生させる。
 電気信号が嗅神経→嗅球→脳(大脳辺縁系)へと伝達し、におい感覚が起きる。

 嗅上皮の粘膜層に広がっている嗅毛には、匂いをキャッチする嗅覚受容体(においセンサー)があり、一つのにおい分子に対していくつかの嗅覚受容体が、鍵と鍵穴が合うように反応し、ビシバシ・ガシャーンと匂いを検知する。
 また、においの濃度が変わると反応する嗅覚受容体の組み合わせが変わり、違う匂いとして感じる事もあるそうだ。

匂いセンサーシステム

 ヒトは約400種類の嗅覚受容体を持つという。 
 その組み合わせは無限にあり、そのため数十万種類あるといわれるにおい物質を嗅ぎ分けることができるという。
 香りがダイレクトに脳に伝わるというのは、このシステムが瞬時に反応するからだ。

 厚洋さんが「せん妄症」に罹った時。
 我が家のまだまだ緑色の温州蜜柑を持って行き、彼の顔近くで皮を剥いた時に、
「あっ。蜜柑だね。
 今年もなったんだね。」
と正気に戻ったことを拙著「白い花にそえて」に書いた。
 香りと思い出が一瞬にして脳を刺激したのだ。
 それからは、認知症の方を介護している人には、必ず「香り」の話をするようになった。

 しかし、順応(疲労性)という性質もあって、
同じにおいをしばらく嗅いでいると、そのにおいを感じなくなってしまうこともある。
 ようするに、鼻が慣れてくる状態。
 そのにおいから離れると、また嗅ぎわけることができるが、ちょっとだけ「鼻が馬鹿」になるんだ。
 お店やよそのお家などに入った瞬間は特有の匂いを感じたのに、そのうち何も感じなくなってしまう。そんな時は鼻が順応しているのだそうだ。
 良い言い方である。
「馬鹿になる」ではなく「順応」である。

我が家のフリージア

 匂いの好みは人によって差が大きく、10人中10人とも好きな「におい」というものは無いに等しいそうだ。
 バラの香りを嫌いと感じる人もいれば、靴下のにおいが好きという人もいる。
 従って、どんなにいい香りでも出し過ぎてしまっては逆効果である。
 厚洋さんは結婚当初、寝室にコロンをつけて行くと、
「臭え。
 お前には似合わない。」
と言われた。
 教え子たちにも、厚洋さんにも好まれた匂いは、メリットシャンプーの香りがする洗い立ての長い髪だった。
 しかし、本人は洗っている時しかシャンプーの香りはせず、ドライヤーを掛けている間に、真愛の鼻は「順応」してしまっていた。

 嗅覚は他の感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚)と違って直接本能に作用する。
 これは、においの情報が大脳辺縁系の扁桃体や海馬といった本能行動や感情・記憶を司る部分に直接伝わるためなのだ。
 他の感覚は、視床・大脳新皮質などを経てから大脳辺縁系に情報が伝わる。
 要するに、まず理性が先に働いてしまうのだ。
 しかし、嗅覚はダイレクトに本能に働く。
 だから、一度イヤな匂いと感じると、その臭いを理屈を抜きに嫌いになったり、ある匂いで昔の出来事を思い出したりと、匂いが感性〔心」にドーンとくるのだ。
 今日は、フリージアの香りで「高校の卒業式」を思い出した。
 今年はその高校の同窓会の幹事なのだが、このコロナ禍で同計画を立てて良いかわからない。
 もう一年ずらして、来年の卒業式のシーズンに
「フリージアのコサージュ」を作ってプレゼントしながら開こうかなと思った。
 が、みんないい年になるので、会えなくなるのも困ったものだ。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります