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ラジオの日
2月13日は、ラジオの日だそうだ。
1946年2月13日。
国連による放送が始まったことを記念したという。ラジオが世界に初めて登場したのは1900年。カナダの電気技術者レジナルド・フェッセンデンが、距離約1マイルでの、音声の送受信に成功する。
彼の改良のおかげで、1906年12月24日にアメリカのペンシルベニア州でクリスマスの挨拶をラジオ放送したのが最初のようだ。
その後、世界各地で実験や試験的なラジオ放送が行なわれるが、1920年11月2日に世界初の公共放送が流れたという。
場所はやっぱり、アメリカ、ペンシルベニア州ピッツバーグのKDKA局。
最初の放送は、アメリカ大統領選挙の開票結果だったそうだ。選挙の結果というのがなんとも言えない不思議な気がしたので調べてみた。
不思議なご縁をチューニングした。
クーリッジ《この人が主役》は、1920年に共和党の大統領候補指名を争ったが、オハイオ州上院議員ウォレン・ハーディングに敗れた。
【この結果をラジオで知らせたのだ。】
ハーディングを支持した者のなかには副大統領候補にウィスコンシン州の上院議員アーヴィン・レンルートを求める声が多かったが、結局共和党はマサチューセッツ州知事のクーリッジを指名。
大統領選では、ハーディング&クーリッジのコンビは、民主党の大統領候補オハイオ州知事ジェイムズ・コックス&副大統領候補海軍次官フランクリン・ルーズベルトのコンビに勝利する。
ルーズベルトに勝っちゃったんだ。
クーリッジは、副大統領としては目立たない存在だったが、1923年8月2日ハーディングがアラスカで心臓発作で急死すると、翌日の早朝に大統領に昇格。
彼の家には電気も電話も通じていなかったので、クーリッジは大統領死去の知らせの伝言を口頭で受けた。
日付がかわった8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行ったという。
凄い波瀾万丈の大統領だ。
その1か月後、関東大震災が発生する。
真愛の母も本所深川で被災する。被服廠の広場には逃げ込めず川沿いを逃げたため生き残れた。
震災発生を知った9月1日の夜、第30代アメリカ大統領 カルビン・クーリッジはただちに対日支援を決める。
大統領令を発し、フィリッピン・マニラや清国に寄港中のアジア艦隊に救援物資を満載し日本(横浜)への急行を命じる。
その時、日本ではまだ対策本部すらできていなかった。
さらに大統領自らラジオを通じ全米に
「困難に直面している日本を助けよう」
と義捐金募集を呼掛ける。
アメリカ赤十字社に500万ドルを目標に義捐金募金活動を指示。
その結果約800万ドルを短時日に集め日本へ送るなど、支援国の中で最大規模の対日支援となった。
これは今から100年前にアメリカが行った究極の「トモダチ作戦」である。
クーリッジ大統領はただちに全面的対日支援を決意し行動する。
陸海軍に救援出動を命じ、
赤十字社を通じ全米に直接義捐金の募金を呼掛け。
世界で一番早く見舞い電報を打ち、
世界で一番多くの医療チームを派遣、
世界で一番多くの艦船と物資を送り、
世界で一番多くの義捐金を日本に送った。
真愛の母たちを助けてくれたのは、この大統領だったのだ。
2011年・東日本大震災支援のとき、バラク・オバマ大統領は88年前にクーリッジ大統領を見習った。
厚洋さんは初の黒人大統領の度量の深さに感激し、日本人である自分が何もしないでどうすると色々悩んだが、ボランティアに行く体力もなく、結局、義援金募金に参加するしかできなかった。
もし、クーリッジ大統領を知っていたら、なんらかの発信が出来たと思うと、「時」というのも「ご縁」の一つなのかもしれないと思う。
初めての公的電波に「敗戦結果」を知らされたクーリッジ氏が日本を救ってくれることになるのだ。
複雑な磁場が生んだ「縁」のような気がしてしまった。
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さて、ラジオの話だが、日本にも世界のラジオ放送のニュースは伝わり、ラジオ放送の実験があちこちで行なわれる。
1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、情報伝達メディアとしてラジオの必要性が認識されるようになった。
1925年(大正14年)
3月22日午前9時30分に、日本初のラジオ放送が社団法人東京放送局(JOAK:現NHK東京放送局)によって発信される。
東京・芝浦の東京高等工芸学校内に設けた仮設スタジオからの第一声は、
「アー、アー、聞こえますか」だった。
このときに使われていたラジオは「探り式鉱石受信機」だったため、聴取者が鉱石の針先を一番感度の良い部分に調節できるように、第一声で「アーアー」と発せられた。
当時のラジオの性能はあまり良くなく、発信源である東京市(現東京23区)外ではよく聴こえなかったという。
以前、同級生の電気工学の先生から、面白い話を聞いたことがある。
長い導線を海岸で引っ張って、アンテナにするのだそうだ。スピーカーは段ボールとか言ってた気がする。
「聞こえるんだぞ。
電気なんか使わなくったって、
周波数に合わせたアンテナさえあればね。
ああ、アースがないとダメか。
ニッポン放送のアンテナの場所知ってる?
連れて行ってあげる。」
なんだか良くわからなかったけど、同じ年の彼が、子どものような声を上げて話しているのが、魅力的だった。
周波数に合わせて、アンテナを引く。
大地に耳をつけて!
人の声とは、
その周波数に合わさなければ
聞こえないものだと思った。
目の前にいる人でさえ、
周波数が合わなければ、
聞こえない。
話している言葉が理解できない。
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木下順二さんの「夕鶴」で、
おつうさんが呟く言葉。
「どうしたの?与兵。
あなたの言葉が分からない。
私には、あなたの声が聞こえない。」
与兵がお金に目が眩み、つうにもっと布を織れという。京都に行きたいと言う。
純真・無垢だった与兵が汚され、俗界の言葉を口にした時、天界のおつうさんには、その周波数の言葉は聞き取れなくなってしまったのだ。
こんな事は、科学の発達した現代でもありうることだ。
「アンテナを高くして」っていう言葉は、まだ使える。情報を得るためには、アンテナを張るとも使う。
でも、「周波数を合わせて」って言葉は死語になってしまったのかもしれない。
相手の思いに合わせることも死語になるのだろうか。
悲しい世の中になったものだと感じた。
ラジヲの日である。
ゲルマニウムラジオ。
彼にとっては、懐かしい日だろう。
彼も木更津あたりのパーツ屋さんに行き、
バリコンとかクリスタルイヤホンとかを買いに
行ったのだろう。
アンテナは長ーいビニール線を垂らし,公園の鉄柵にアースを繋いで、耳をそば立てたのだろう。
久々に、懐かしい友達の笑顔を思い浮かべた。 コロナ禍で会えないが、どうしているのだろう。
遠くの国の情報や芸能人と言われる人の情報はラジオで、テレビでスマホで何度も嫌になる程流れてくるが、本当に気になる人の今の情報を得る力がない。
18歳で別れたkoga.kayokoちゃんと言う女の子の消息が知りたい。元気でいるのだろうか。
彼女の周波数はいくつなのだろうか。
今日はラジオの日。
戦後のラジオのように「尋ね人の時間」ってないのだろうかと思った。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります