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俺の命あんたに任せる

 2ヶ月に一度の採血の日。
15年前、高血圧症・糖尿病になり通院している病院だ。 
 病院嫌いの厚洋さんが緊急入院した病院だ。
 真愛と厚洋さんの「命がけの恋 45日間」を過ごした病院でもある。

 採血をしてもらっていると懐かしい医院長先生の声がした。それと同時に
「俺の命。あんたに任せる。」
と言った厚洋さんの声も聞こえて来た。
 もうすぐ、三回忌を迎える。

「俺の命、あんたに任せるよ。」
と研也先生に告げたのは、夫・厚洋さんが亡くなる40日前の夜だった。
 病院嫌いな彼は、
「酒飲んで、タバコ吸って死ぬんだったら本望だ。」
と、豪語していた。
 彼の日記には、“家で死にたい”と記されていた。肺を患い、自分の身体の変調に気づい頃だ。
 そして、“入院すれば真愛に迷惑がが懸かる。”と入院を拒んだ。
 だから、8月3日の深夜に救急車を呼ぶまで我慢していた。救急車を呼んだ私に向かって、
「裏切り者。入院なんかさせて。
 入院するなら、お前が一緒じゃなきゃ
 ダメだ。」
と駄々を捏ねた。
 後で気づいたことだが、人は自分の死と対峙した時、怒ったり、我儘を言ったりするのが当然であり、静かに死を受け入れるなんてできないことだと思った。
 亭主関白の名の下に、少しずつ近づく死への恐怖を「男の美学」を貫くことで、何とか回避したのだろう。
 今、思うことは、抱きしめてあげれば良かったということだ。
「大丈夫、真愛が側にいるから。」
というだけでなく。
 彼は大腸癌の末期。全身に転移していた。
 そんな彼だったので、私は24時間体制で、
付き添い看護をすることになった。
 私としては、苦しそうにしている彼をオロオロしながら見ているよりも、点滴をしてもらって、何かあればナースコールを押せばすぐ看護師さんが来てくれる病院が安心だった。

 S病院はお年寄りが多い。
 それは、研也先生が話しやすいからだ。
 診察の時に目を見て、顔色を看て話をしてくれる。脈を取り触診する時には、たわいない話をしてくれる。
“医は仁術”と言うが、患者の望や想いを叶えてくれるから来院するのだろう。
 最近の大きな病院では、顔も見ず、
パソコン「向かって話しかけながら
「・・・ということです。どうしますか?」 
どうしますかって聞かれても、私は医者じゃないし、どうして良いかわからない。
“病は気から” で、悪化の一途を辿らざるを得ない。
 入院し「近しい人を呼んでください。」
と言われた私は、
(死しか残されていない彼は何を望のだろうか?)と悩んだ。 
 痛みと闘うように唸る彼を見続けるしかない自分の無力感と男のメンツで自分の足でトイレに行きたがる我儘に困らせられ、2週間後には倒れた。
 彼は語らなかったが、私は願った。
「彼が安らかな死を迎えられることを。」
彼が日記に書いていた事と同じことを思った。
 残り僅かな時間を彼が笑顔で過ごせるのなら、「生きてきて良かった。」と、彼が思ってくれたら嬉しいと思った。私に出来ることは、全てしたかった。
 自分の命より大切なものが有るとすれば、今、目の前にいる彼の安らかな眠りだった。

 結婚して43年。
 年老いた私が命がけで、もう一度、彼を愛することができたのは、この病院と研也先生と看護師さん達のお陰だと思っている。
 何とか、彼を生き伸ばしてくれた45日は、
「命がけの恋」をした。

 看護師さんの中に彼の教え子や知人もいたこともあって、その人達が病室に来る度に楽しい思い出話をしてくれた。 
 入院した直後は、せん妄症に罹っていた彼が正気を取り戻してくれたのも彼らのお陰である。
 面白かったのは、高橋さんという看護師さんが検温に来た時は、必ず
「真梨子?
 いい名前だねぇ。
 for you 好きだね!
 ♪あなたが欲しい♫あなた欲しい♪」
と口ずさんだ。
 無口で人嫌いに思われがちな厚洋さんが、看護師さんと笑顔で話している姿を見ているのが嬉しかった。

 看護師さんたちは、厚洋さんを看るだけではなかった。
 初めての看護をしている私のこともよく気にかけてくれた。
「俺は、お前じゃなきゃ嫌だ。」
と、すべてに言うので、下の世話,食事の世話・体拭きなど、ほとんど私がやらせてもらった。(彼の恥ずかしい部分は、私が世話をしたかった。誰にも見せたくなかった。カッコイイ先生でいさせたかった。)
 慣れない事をアタフタしながらやっている私は、疲れとストレスで徐々に痩せていった。そんな私の体についても気を使ってくれた。

「私達がやるからいいですよ。」と言うのではなく、
「頑張ってるね。
 大丈夫?ちゃんと寝なさいよ。
 昼間、旦那が寝てる間に寝るんだよ。」
と色々なテクニックを教えてもらった。
「旦那さんは幸せだね。
 こんないい奥さんで!」
と、男の看護師さんに褒めてもらった。
金メダルをつけてもらったように嬉しくって
寝なくても頑張れた。 
 また、これらの言葉が
(明日も頑張ろう。
 彼が喜んでくれるために何をしようかしら)
と、苦しい中にも楽しい明日を考えられるようになった。私を生かし続けてくれた言葉達だった。
 年寄りの2人なのにも関わらず、新婚の時のように「愛し人」に戻れたのは、彼らの私達への接し方があったからだ。
 そして、最後のプレゼントをもらった。

 情けない事だが、真愛は付き添って2週間で疲弊した。
 夜中中
「真愛。何処にいる?」
「真愛。寝られない。」
と呼びかけられる。厚洋さんは昼間は点滴で痛みを止めてもらってうとうとする。
 元気な頃から、「酒を飲まなきゃ寝られない。」生活をしていたのに、睡眠導入剤になるお酒が飲めない。だから、夜通し起きてしまう。起きたら「真愛がいない。」と不安になるから私を呼ぶ。真愛は、24時間寝られない。
 家に帰るのは、猫の餌やりと洗濯。厚洋さんの食べたい物を作って来る事。
 それも2時間も行っていると
「真愛がいない。」
と言う。私がいないとトイレを我慢してしまう。
 お風呂にも入れない日が続いた。シャワーは、病室についている物を使った。
 彼は、病院食を嫌った。
 その残りを食べれば良かったのだが、食後、看護師さんに「どのくらい食べましたか?」と聞かれるので、食べられないまま返した。 
 やつれて来た真愛を見て
「夜だけでも寝られるように帰りなさい。」
と言われて、夜だけ帰ったが、離れている事の心配と「家に帰えりたい。」の彼の願いを叶えるための介護部屋を作るストレスとで、4周間目には倒れてしまった。
「奥さんが倒れたら、
      旦那さんが困るでしょう? 
 共倒れになっちゃうよ。」
と諭され、夜も早く帰るように言われた。
 厚洋さんは、毎晩、何度も、携帯から
「今、何してるの?」
と尋ねてきた。切る時は必ず、
「愛してる💕」と言い合った。
 離されると、恋は燃え上がる。恋人同士に戻っていた。
(夜も一緒に過ごしたい。)そう思っていた。
 だが、付き添いベッドも返してしまっていたので言い出せなかった。
 輸血もしてもらい、痛み止めも効き痛がらなくなった。意識もはっきりし、今後の2人の夢も話し合った。彼の最期までの時間はまだまだ有ると思っていた。
 9月14日の夕方。
 厚洋さんのお腹を摩っていると
「今夜は泊まっていいよ。
    泊まりたいでしょう?
 泊まりたいって顔に書いてある!」
と、笑いながら真梨子さんが言った。
「付き添いベッドは返しちゃったから、
 旦那の横で寝ちゃいなよ。」
2人にとって最高のプレゼントだった。
 弱っている厚洋さんに抱かれて寝た。
 43年前の夜の様に求め合った。

 その夜の思い出が、今も私を生かしてくれている。
 翌日も彼のベッドで一緒に眠り、彼は私の髪を撫で、腕枕をしてくれながら、苦しまずに逝った。
 幸せそうな穏やかな顔だった。

 その後、いろいろなことがあり、彼の後を追って自死することも考えた。
 しかし、私は今も、この病院に通っている。

 彼の亡き後、真愛の身体のことを心配して、睡眠導入剤・定期検診の準備をしてくれた研也先生だ。ストレス障害になっことを証明する書類も書いてくださった。
「あの時。止めてもらって良かった。」
と言う私に
「いや、テレビに出たら、言ってあげるつもり 
 だった。
『あの無言電話じゃ、精神を病んじゃうよね。 
 真愛さんが悪いのではなくて、相手が悪い。
 当然のことだ。』ってね。
 でも、テレビ沙汰にならなくて良かった。」
と研也先生は笑った。
 
 定期検診の時期が来た。
「もう、一年になるんだね。
        よく頑張ったね!」   
と、研也先生が微笑みながら、褒めてくれた。
 私も厚洋さんと同じに思った。
「私。あなたに命預けます。」

↑これは、一周忌に「命のフォト・エッセイコンテスト」に応募した内容だ。
 残念ながら力不足で、研也先生や看護師さん達の素晴らしさを伝えるより真愛の事を書きすぎて落選した。
 しかし、この病院の良さを思い出しnoteに残しておきたいと思った。
 「医は仁術」である事を痛感した出来事である。コロナ禍の今、医療関係者は、未曾有の困難に直面している。
 研也先生や看護師さん達が安全で活躍してくださる事を願って止まない。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります