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あんな母親になりたかった。

(あんな母親になりたかった。)
過去形である。
 彼女のように美しくもなく。
 彼女のように若くして亡くなってもいない。
 彼女のように愛し子に語れる徳もなく、
           言葉も持たなかった。
 ここ最近、「鬼滅の刃・劇場版」の地上波番組が続けてあり、コロナ禍で行けなかった(行かなかった)映画を見る事ができた。
 以前にも「ワンシーンが好き」の記事でnoteに公開したが、6作連続で見て、やっぱり私は「ワンシーン」が好きなのだと確信するに至った。

 炭治郎君が倒した鬼の思いを感じ、
「元々は人だったのに、
     鬼になんかなってしまって…。」
と、優しい声をかけると鬼が泣くのだ。
 鬼になってしまうほどに辛かった思い出と、本当は優しい心を持っていた事を思い出し、優しい人に包まれていたのだと幸せな優しい思い出の中に逝くシーンが、堪らなく好きであり、おばあさんがティッシュ片手にポロポロ泣くのだ。

 厚洋さんが居たら、見る事ができない映画である。(本当は見たいのに、本当はミーハーなのに
漢の沽券にかかわるらしい。)
「アニメが見たい。」と言う真愛を「ガキ!」と言って笑った。
 ましてや、アニメ映画を見て泣いている真愛は完全に馬鹿にされると思ったので、余程のことがなければ、厚洋さんの前では見なかった。

 真愛は、小さい頃から映画やドラマを見ながらポロポロ泣く子であった。
 3歳の頃。
 大人と一緒にテレビドラマを見て、大人が感動し泣きそうになった場面で、先に泣いたらしく、
「あら、この子泣いてるよ。ちっちゃいのに
 凄い。分かるんだねぇ。」
と、褒められてお煎餅を貰った事を覚えている。

 昔は、TVも普及していなかったし、田舎には映画館もなかった。だから、小学校に映画が来る。 「野ばら」とかっていう洋画を見て大泣きをした。「猿飛佐助・真田十勇士」を見ても泣いた。漫画本を読んでも泣いていたし、図書館から借りた本を読んでも泣いた。
 生まれつき涙腺が弱いのだ。
 だから、大人になって映画館に行くのがあまり好きではなかった。アクション映画であっても、ちょっとした心揺するシーンがあるとウルッとしてしまうのだ。
 厚洋さんも、最初は「可愛い」と思ってくれたらしいが、そのうち
「本当にお前は涙腺が緩いな。
    でっかい目が流れちゃうぞ。」
と、笑いながら馬鹿にされた。
「情緒の安定が保てない「裸の心」なのだ。」
と言ってあげたかったが、厚洋さんが元気な時には、あいみょんの歌はまだ生まれてなかった。

 要するに、「鬼滅の刃」は映画館なんかでは見られない。おばあさんが泣き腫らした目で出て来る姿なんか見たくないだろう。
と言うことだ。

 待っていてくれたお兄ちゃんと家に帰る鬼。

お母さんとお父さんに愛された鬼。

 あなたの綴った言葉は素晴らしかったと認められる鬼。

 鞠に込められた切ない愛を…。

 生きることの大切さ、己の力を信じ未来に向かって進むことの意味を教えてくれる。

 人は鬼になってしまうほどに辛い苦しい世界に生きていることも教えてくれる。

 相変わらず、同じ背景で心の中の声が多い映像だと思ったし、煉獄杏寿郎さんの戦いのシーンでは、
「ドラゴンボールか?
 ケンシロウか?」
と思わせるシーンだった。

 だが、「無限列車」は、ボロボロに泣けるシーンが沢山たくさんあった。
 今まで以上に家族・親子・師弟・仲間そして、生きる意味、生まれて来た意味を考えさせられた。
 ワンシーンではなく、多くのシーンが多くの言葉が胸を打ったのだ。

 若くして息子を置いて逝く母親が語る。
「何故、
 自分が人より強く生まれたか分かりますか?」
「分かりません。」
「それは、弱き人を助けるためです。
 生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は
 その力を世の為人の為に使わねばなりません。
 天から賜りし力です。
 人を傷つけること、
 私服を肥やすことは、許されません。
 それは、強き者に生まれた責務です。
 責任を持って、果たさなければならない
 使命です。
 決して、忘れる事のなきように

「私は、強く優しい子の母になって、
 幸せでした。
 後は頼みます。」

 若くして子を残し逝った母親の言葉に
「母上。
 私の方こそ、あなたのような人に
 産んでもらって幸せだった。」
と、回想する息子。

 生まれながら政治家の家系であり、力を持って生まれた者が「私服を肥やし」「強い者の味方」をする平成・令和は、鬼が割拠している時代だと思ってしまった。
 強き者ではないけれど、弱くないのだから、弱い人を助けるべきだとも思った。
 そして、
「あなたの母で幸せでした。」
と言う母と
「産んでもらって幸せだった。」
と応える息子。
 こんな母親になりたかったと思った。
 真愛にも息子がいるが、こんな徳のある言葉を言った事がない。目の前の事に汲々として母親失格である。
 息子は頑張り屋で優しい子である。
 息子は、「この母で良かった。」と思ってくれるのだろうか?
 最低限、彼に迷惑をかける母親にはなりたくないとしか思えない情け無い真愛である。

 最期の時を迎えた息子の霞む目の前に

 母親が現れる。きっと迎えに来たのだろう。
「母上。
 私はちゃんとやれただろうか?
 やるべき事、果たすべき事は、
        真っ当できましたか?」

 美しい母は、
「立派に出来ましたよ!」
と、優しく微笑む。

 人は、何らかの使命を持って、生まれて来たのだと真愛も思う。
 そう気づかせてくれたのは、愛しい人との死別だった。
 彼の後を追わずに、生きさせてもらったのには理由があり、生きて真愛のやらなければならない事を真っ当する事だと思ったのだ。
 だから、真愛の最期には厚洋さんが迎えに来てくれたらと願っているし、その時、
「頑張ったね。」
と言ってもらいたいと思って生きている。
 お母さんの言葉を聞いた煉獄杏寿郎さんの笑顔が最高だった。
 あの映画を見ると、ポロポロ泣きながら、
「頑張って、命の限り前進しなければ。」
と思わせてくれる。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります