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記念樹

 君の名前を彫りたまえ
 やがて天まで とどくほど
 大きく育つ木の幹に
 大理石と比べたら
 立木の方が得なんだ
 彫り付けられた君の名も
 一緒に大きくなって行く
  
 堀口大学訳のコクトーの詩である。

 初任の学校には大きな欅の木があった。
 根本は一本なのに、2Mぐらいから2本に分かれる。真愛は、勝手に「恋人の木」って思っていた。
 だから、卒業する大好きな子達一人一人と写真を撮った。家庭科で作った「エプロン」を着けて、家庭科室にある物を持って記念撮影をした。
 この木に内緒で、「名前を彫った。」
 相合い傘とM&M。
 16年後、再び同じ学校に、出戻り勤務をする事になった。
 まず、初日の学校案内で確かめたのは、彫った名前がどう残っているかだった。
 「彫った名前」ごと、木は伐採されていた。
 広い広場になっていた。
 
 この学校から始め、38年も続いた学級通信の名前が「すずかけ」だった。
 真愛は、小学校時代。
 虐められると、「剥き出しの長い鈴懸の根元」に座って一人でいた。木の根に座っていると泣かなくて済んだからだ。
 初任でこの学校に来た時、太い鈴懸の木があったのを見て「ここでなら頑張れる。」と思ったのを覚えている。

 厚洋さんと付き合い始めて、「鈴懸の小径」って言う歌を彼から教えてもらった。

友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学舎の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径

友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学舎の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径♪

「鈴懸」の花言葉が「天恵」と言う話も教えてもらった。
 鈴懸の木に実がつくと、「鈴が天から降って来たようにぶら下がる」事から、「天からの恵み」とついたと言う。
「俺たち教員にとって、子どもたちは、
 天からの恵み。
 大切に、あるがままを受け入れて、
《彼らの幸せを考える事が幸せであると感じら
 れる人間》でありたいな。
 いい名前だ。
 忘れてはならない思いだ。」
と、厚洋さんに「学級通信の名前」を褒めてもらった。
 
 次の学校には、鈴懸の木がなかったが、5年後転勤する前に体育館の脇に「鈴懸の木」が植えられた。
 その学校の子供たちも可愛かった。
 そして、卒業式の後、「名前を彫った」
 M&Kと。

 2番目の学校の「鈴懸の木」を見に行ったのは、彼らが20歳になった時だった。
 タイムカプセルを開けて、思い出を懐かしみ、成長に感激して、体育館の脇に一人で見に行った。
 鈴懸の木はそこにあった。
「彫り付けられた名前」も一緒に成長していた。
 刻んだ文字は、解読不能の切れ切れの傷にしか見えなかった。
 コクトーさんに伝えたい。
「確かに彫りつけた君の名前も、一緒に大きく
 なっていくけれど、解読不能になるのです。
 記念樹は、植えた時点でいいのです。
 その思い出を勇気にして、思い出に戻れば
 心が強くなるのですから。
 そこに頑張った自分がいた事を思えるだけで
 いいのです。 
 時の流れは、全ての形を変えていきます。
 時の流れに逆らって、鮮やかな思い出を描け
 るだけでいいのです。
 でも、彫りたいですね。解読不能になっても
 名前を…。」
 
 我が家には、記念樹がいっぱいある。
 我が家ができた記念の銀木犀。
 厚洋さんと二人きりになった日に、M&Aと彫ったけど、今はどこにいったやら。この木は、厚洋さんのお通夜の朝に、甘い匂いで包んでくれた。
 息子が生まれた時に植えた杏の木。
 母の家に植えてた物を移植した。

 今年は、沢山の花を付けた。
 
 この家ができた時に母が植えた唐種御霊。
 厚洋さんが退職した年に頂いた紅葉の木。
 真愛が畑を始めた時に厚洋さんが植えてくれた枝垂れ桜。

 そういえば、津波に負けない「松の木」
 阪神淡路大震災で避難所になった
 本山第二小学校の「メタセコイヤ」
 閉校になった学校の校庭の真ん中にある
「ヒマラヤシーダ」
 みんなみんな記念樹だ。
 名前を彫らない木も「記念樹」としていっばいあるのだろう。
 その木を見るたびに、誰かを思い、何かを思う。忘れてしまっても、「記念樹」を見て蘇る。
 「人は強い」のではなく、「時が強い」のだ。
 記憶は忘れるという「無」・「非」・「不」があるから生きていられるのだと思う。
 有るけど無いもの。
 増える事もなく減る事もなく。
 それら全てが、「生きていける」ように仕組まれているのだ。
 彫ってなくなった「名前」
 何度も何度も思い出しては、忘れてしまう。

 母の乙女椿が咲いた。
 生きていれば114歳だ。
 ずっと、父を愛し続けた「乙女」のような人だった。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります