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差別化という言い方が嫌い

 差別化という言葉が嫌いだ。
 見出しの「ニャンコのケーキ」は、可愛いし美味しいし至極のケーキである。
「このケーキは差別化を図った結果の産物で
 くまちゃんは何処のケーキ屋さんでも作る
 がニャンちゃんはいない。珍しいのだ。」
 ニャンコのケーキは好きなのだが「差別化」は嫌いなのだ。
 いつの頃からだろうか差別化という言葉を使うようになったのは。
さ‐べつ【差別】 [名](スル)
1 あるものと別のあるものとの間に認められ
 る違い。また、それに従って区別すること。「両者の差別を明らかにする」

2 取り扱いに差をつけること。
 特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって—しない」「人種—」

3 ⇒しゃべつ(差別)

 数十年前の真愛は、「差別」というとほとんど「2」の意味で使っていた。
 差別され虐められて育って来た真愛には、決して許せる言葉ではなかった。
 現在多く使われている「差別化」「1」の使い方をする際には「区別する」「差をつける」
「差異を見つける」「最もよく」「1番)なんて言葉を使っていた気がする。
 要するに「差別」の言葉が嫌いだったのだ。

「差別化を図る」
 読み方:さべつかをはかる
 特定の物事を同種の他のものとは異なった、より優れたものとするために、顕著な違いを持たせようとすること。
(2011年11月19日 誰が書いたんだっけ?)
 差異化とは 、競合他社や競合商品との違いを明らかにしたうえで、別のものとして区別することなのだそうだ。
 競合他社や競合商品と、別の方向性を打ち出すことで、例えば「若者向けアプリを開発している競合他社に、高齢者向けアプリを開発して対抗する」などが差異化になる。
 何かのマーケティングの基礎知識かな?
「差別化」という言葉。
「一方を高く、一方を低く取り扱うこと」
「同類の他のものとの違いを際立たせること」
として使っているようだ。
 同じものでも高い・低いがあり、良質・普通・悪質ごあるのだから、低く取り扱うという意味があっても仕方がない。
 真愛は、
「同類の他のものとの違いを際立たせること」の方の言葉で使ってほしいのだ。
 図式的には同じなのだが、「語感」が違う。
 一般に知られているように二者もしくは複数あるものを前提に、それらの中で違いをはっきりさせることを「差別化」を図るというらしい。
 真愛は、「差別」という言葉が嫌いだ。

 近年、企業の中では「差別化戦略」という言葉が使われているようで、特にマーケティング(市場)の分野では、「特定商品(製品やサービスを含む)における市場を同質とみなし、競合他社の商品と比較して機能やサービス面において差異を設けることで、競争上の優位性を得ようとする戦略」(wikipediaより)という。
 愚息がマーケティングの仕事をしていることから時々聞くが、彼はお母んの嫌いな言葉は使わない。「優位性」「優れた物」という言葉を使う。
 負の言葉ではなく、未来志向的な言葉を使うのだ。語感の違いで受け取り側の気持ちは爽やかな競争社会を感じる。

“Differentiation”「差別化」
“Distinctness” 「区別」
“Difference” 「違い」
“Separation” 「分離」
“Demarcation” 境界」
“Delimitation”「限定」などである。
この”Differentiation”の意味を調べてみると
「区別を認めること、弁別」
「差異を認めること、差別を設けること」
「分化、変異」
とあり、英英辞典では、
“The process of making your product or service seem different from other similar products or services that it is competing with:”(Oxford Business English Dictionary)
[自社の製品やサービスを、競合する他の類似
 製品やサービスと異なるものに見せるための
 プロセス」
(オックスフォード ビジネス英語辞典
 Google訳
とありマーケティング分野に特化した意味が掲載されている。
ということはこの「差別化」は市場経済において、競争原理に基づいた理念で使われ、対象物は製品、商品、サービスなどなのだ。
 市場経済において…。という事なら納得する。
 しかし、最近のセミナーやネット上で
「人を差別化する」という意味合いで使われている事が嫌なのだ。
 自分の能力や経験などを他の者と「差別化」するという言い方なのだ。
 転職などで、自分を商品化して「売る」ということの意味で使っているのだろうが、対象物が「人」である場合に「差別」という言葉を使うと、「2」他よりも不当に低く取り扱うこと」「差別する」という意味を強く感じ、
「人は皆平等だろう?」と言いたくなる。
 真愛は、「差別」という言葉に不快感を感じるのだ。
 人の能力や経験など「個人に備わった特有の性質」を対象とするなら、「個性」や「特徴」の方が相応しいと思うのだ。
 こんな言葉に拘り、嫌いだと書く真愛がおかしいのだろうか?
 パリオリンピックが始まった。
「選手の差別化を図る!」という。
「もっと強く優れた技を使えるように個にあった指導をしたい❣️」と言えば、
「頑張れ!
 監督・コーチ陣の事も応援してるよ‼️」
と言いたい。
 クーベルタンが唱えたオリンピズム=オリンピックの精神とは
「スポーツを通して心身を向上させ、文化・
 国籍などさまざまな違いを乗り越え、
 友情、連帯感、フェアプレーの精神をもっ
 て、平和でよりよい世界の実現に貢献するこ
 と」
 何でしょう?
 オリンピック休戦もないし、言葉が機能しない社会になった気がする。
「平等」でなければならないのです。
「平和の祭典」出なければならないと思います

 真愛は「差別化」という言葉が大嫌いです。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります