出来ないことを願う
ずぶ濡れになった結婚記念日から、3日も過ぎたのに、まだ厚洋さんとの新婚時代を思い出す。
彼が亡くなってから960日め。
もしも、彼が元気でいたら、記念日の日に
ちょっとだけ思い出して、直ぐに日常に戻り、「連休なのに、どこにも行かないなんて
つまんない。どっか、行こう!」
「行けば?
どこも混んでるから、出かけるの嫌。」
という会話に対して、
(厚洋さんはパチンコに行けるから
家で飲んでるだけで良いから…。
それでいいかもしれないけど、
真愛は、どっかに行きたい!)
とブツブツ言って、畑の草取りをしたのだろう。
このコロナ禍が到来するとは思ってもいなかった頃のことだから、今だったら、
「暇だな。どこにも行けないし、
柏餅の餡子でも煮るか?
蓬を摘みにいくぞ。」
「帰って来たら、将棋がやりたい。
何かける?
負けた方が肩揉みね。」
のパターンかもしれない。
このコロナ禍で、人嫌いな厚洋さんは苦労しなかったのかもしれない。
真愛も厚洋さんだけいれば良かったのかな。
いや、私の方が外に出たがり、付いて来てくれない彼に文句を言っていたのかもしれない。
もう願っても出来ないことだから、【素敵な思い出】と共に想像できる。
思い出は、どんどん美化される。
願いとは、「こうなってほしいと思うこと」
願いの意味を調べたのは初めてかもしれない。
こんなに長く生きて来て、教員もやってきたのに、「願い」という言葉を調べた事はなかった。いつ覚えたのかさえ分からない。
しかし、「願い」が「出来ないことを思うことだ。」と気づいたのは今日だ。
今までの能天気な真愛は、
「願いは、いつか叶うこと。
叶わないこともあるけど。」
と思っていた。
「お願い!やってくれる?
お願い!」
と言ったら必ずやってもらった。
まあ、お願いする人に対して、能力以上のことは頼まないし、お金のかかる事は頼まない。
神様にだって、仏様にだって、「お願いしても無理な事」は言わない。身の丈にあった「お願い」をしていたからかもしれない。
彼の一周忌からは、お仏壇の前で「お願いではなく、自分が努力するから見ていてほしい」と語った。「努力目標宣言」である。
願いとは、「こうなってほしいと思うこと」
ー 厚洋さんともう一度会うこと ー
もう願っても出来ないことだから、
【切ない思い】は、《諦めなくては行けない》
と、ようやく思ったのだ。
亡くなって960日目に。
しかし、出来ない事だからこそ【強く思う】
事にもなる。
出来ないと分かっていても「努力目標」にしてしまう。未来がわからないから、絶対に叶わないと言い切れないと思うのだ。
明日(未来)がなければ、「こうなってほしいと願うこと」もない。
明日がある限り「願い」も続くのだとも思う。
↑バナナマフィン
本当は「ケーキが食べたかった話」が書きたかったのだが、「願い」の見出しの写真に厚洋さんを入れたら、「切ない方向」に進んでしまった。
「出来ないことを願った」のは、いつも行く喫茶店・恋とコーヒーさんが連休でお休みになり、大好きなケーキが食べられない。
たった4日間のお休みなのに、
(ケーキが食べたい❣️)と考え出したら、4日間の長いこと長いこと。
「出来ないことを願う」それを我慢する胃袋君の「切ない」気持ちを代弁しようと思ったのに
考「願い」になってしまった。
↑フルーツゼリー
↑カレードリア
↑いちごムース
↑いちごのシホンケーキ
↑桃のロールケーキ
↑フルーツパフェ
↑オレンジムース
↑レアチーズケーキ
↑あまおうのムース
↑ベークドチーズケーキ
↑オムハヤシライス
載せれば載せるほど「食べたい❣️」
長いなあ連休。
でも、このコロナ禍で、「食べたい大好きなケーキ屋さん」「大好きな〇〇」のお店が、閉店してしまった所も多い。
「休み」と「終わり」の違いだ。
「もう願っても出来ないこと」との折り合いをどうつけるか、本当は、ケーキを食べながら考えたい。
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります