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桜がひとり

 桜の花は突然現れる。毎日通っている道なのにも関わらず、
「こんなに美しい桜があったのだね。
 ごめん。気がつかなかったよ。」
って思う事がある。
 我が家の枝垂れ桜とソメイヨシノには、毎日
「もう少しだね。」
「今咲いたら、春の嵐で散っちゃうよ。
 もう少し、我慢してね。」
と話しかけてしまうので、その変化を見逃す事は少ないが、それでも「今年は去年より…。」と驚く事がある。
 桜の苗木を購入して、5年はチラホラしか咲かず、厚洋さんが逝ってしまった翌年から、「枝垂れ桜です♪」と歌うように咲き始めた。
 桜は人の魂を喰らって「生命を咲かせる」と言うのは本当かもしれない。
 百年も生きている古木のソメイヨシノは、もう薄紅では無く白に近くなっている。
 要するに桜の花が突然現れるように感じるのは、「花の盛り」に出会う驚きなのだと思う。
「花の盛り」は、その時期に一度訪れ、その木の一生にすこしの間だけ訪れる。
 その時期に一度と言うのは、2022年に咲く桜の開花の中で一番美しい一瞬である。
 それは見る人の感じ方で色々あると思う。
 厚洋さんのように
「街灯に照らし出された夜桜の
      散り始めが一番美しい。」
なんて、武士道ここに有りみたいな人もいれば、
「花房になる蕾が割れて、
 ひとつひとつが紅色になって、
 その木が薄紅色の衣を纏ったように見える時が 
 一番可愛い。」
なんて太宰治を真似る真愛のような輩もいる。
 どれをとっても、今季の中での一番である。

我が家のソメイヨシノ

 もう一つの「花の盛り」は、その木の一生のうちで一番「美しい瞬間」と言う事だ。
「女盛り」と言う言葉がある。
 女性の容姿がもっとも美しい年頃という意味で、世間一般的には「20代後半のこと」と認識されているようだ。
 それを過ぎると「もう姥桜…。」なんていうが、真愛の年になったら「棺桶桜」か、「あの世桜」になるのだろうか。
 話を戻す。
「花の盛り」の頃の桜は、紅色が濃い。
 河津桜や八重桜は余り変化しないが、ソメイヨシノは年をとってくると白っぽくなる気がする。
 そんな盛りを過ぎた古木が切られる前の年に、昔のような紅いろになるのは切ないほど美しい。

台風で倒れたままでも

 桜並木ではないところで、一本だけ咲いている桜に出会うと、「あっ、頑張ってるね。」
と思う。
 台風で倒されたままの桜の木に花が咲いた。
「ありがとう。頑張るね、私も!」と思う。
 さだまさしさんの歌に「桜がひとり」と言う歌がある。

ー 桜がひとり ー  
迷い道でふと見つけた
         桜がひとり
誰も知らない路地裏の
         行き止まりに
昨日春一番が吹いた
三寒四温の夜
冴え冴えと十六夜の月
枝先は春色
「頑張れ」って僕は
       誰に言ったんだろう
こんなところに棲んでた
       桜がひとり

迷い道でふと見つけた
         僕だけひとり
誰も気づいていないけど
         僕だけひとり
昨日桜が咲きましたと
       夜のニュースが言う
思い出して出かけてみた
       行き止まりの花に
「頑張れ」って君が
         僕に言ったのかな
こんなところで咲いてた
         桜がひとり

吹きこぼれるほど咲いてた
         たったひとりで


桜が咲いてた

 桜に話しかけてしまうのは、日本人だからだろうか。
 己が生き方を桜に見てしまうのも日本人だからだろうか。

彼が好きだった夜桜

 今年もソメイヨシノが咲き、枝垂れ桜が咲く。
 厚洋さんと一緒に見た川沿いの夜桜も白い花房を揺らす頃になる。
 花の盛りは過ぎてしまっても、愛しい人を思う胸の煙は絶えない。
 狂おしい十六夜の月と桜を見る。

月と桜

 桜と月はよく似合う。
 もちろん、青空と桜も心ウキウキさせる力がある。よく似合うということだ。

陽光と言う桜

 歯医者さんの窓の向こうに鮮やかな桜の木が一本。
「咲きましたあー!」
って叫んでいた。
 闇に見えるのは、田おこしが終わった田んぼである。
 闇に桜もなんとも言えない。

広いガラス窓の向こう側に

 お墓参りに行ったら、咲いてた。

右端のお地蔵さんが見ていた

 誰もいない路地裏の集会場の隣に、赤い帆足を被ったお地蔵様がいらっしゃる。
 お墓を作った頃からあるので、3年間お会いしている。
 このお地蔵様、季節によって着ている着物が違う。
 夏には涼しげな服を着る。
 冬には帽子も被るしマフラーもする。
 きっと、このお地蔵様は、どなたか子どもさんの御供養のために建てたのだろう。
 その方のお母様だろうか、ご兄弟か、お父様かも、おじいちゃまかもしれないが、ずっと思い続けていらっしゃるのだろう。
 私がお会いしたのは3年前だが、お地蔵様自体は古そうである。
 桜をひとり見つめるお地蔵様。
 たったひとりで咲く、突然の美しさの桜。

我が家の枝垂れ桜


 我が家の枝垂れ桜もひとりだった。
 厚洋さんが、畑を始める時に記念樹として買ってくれた桜。
「ひとりになっても、
    お前らしく生きるんだぞ。」
って、言ってくれている気がする。
 


ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります