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花終い

 紫陽花を育て、水無月の庭で
     紫陽花の移ろいを楽しんだ。
「城ケ崎」
「隅田の花火」
「姫紫陽花」
「明月院ブルー」
「HBAカーリースパークル」
「オタフク」 
 刻々と変わる紫陽花の色の変化。
 厚洋さんと話した「紫陽花が季語の俳句」もたくさん思い出せた。
 愛しい人が愛した庭から、生きる力をもらった。来年も咲いて欲しいので、
「花終い」をした

 34年前に引越して来た時に、山道に咲いていた紫陽花を挿し木したのが始まり。
 今では、
玄関アプローチに鉢植えが20鉢。
畑の周りに80株。
↓ 北側の土手庭5株

 紫陽花の家になりつつある。

 その紫陽花を剪定した。
「花終い」は、真愛が勝手につけている言葉。
 そのシーズンが終わったので片付けるの意味なのだが、「片付ける」では楽しませてくれた花達に申し訳ない。
 特に、紫陽花の場合は「花房」(花と呼ばれている)から葉っぱ4〜5枚下を切るので、「花の首」を切っている気がする。
 何百本も切るので、とても切ない。
「有り難う。」
「また来年ね。」「でも、あんたじゃないね」 
「生命は受け継がれるよ。」
「綺麗に咲いてくれて、有り難う。」
 
 一株毎に形を整えながら剪定していくが、
10株を過ぎると無我の境地に入る。
 何も考えず手だけが動いていてびっくりした 
 
 ひょっとすると「無我の境地」ではなく
「熱中症」になっていたのかもしれない。

↑玄関アプローチのは鉢植え20鉢は、

 ↑全て剪定し、北庭に移動した。 
 増やしたい種類の枝は、挿し木にして再来年までプランターで育てる。

 畑の周りの80株は、思い切って根本から剪定した。
 花芽を残して株の大きさを変えないで、来年思い切り切るか。
 根本から切って来年は少ないけど再来年には見頃にするか。
 ハムレットのように悩んだ。

↑この状態から、

 ↑さっぱりとかられてしまいました。
「何やら、お母ちゃんに刈られた中学生の坊主 
 頭みたいに、虎刈りにされました。」
と紫陽花が言ってます。
 物事の「お終い」は、今までもたくさん経験している。
「さあ。これでお終い。」と、学習の終了や遊びの終了を告げたり、「ご馳走様」を無理やりに言わせるために行ったりした。
「もう、お終いにしよう。」と恋人同士が切ない別れをする事もあるだろう。
「人生のお終い」は、死なのだろうか。
「人生のお終い」は、死に方なのだろうか。
 もし、「人生の終い方」を自分で決められるとしたら、厚洋さんのようにしたい。
 真愛に「大好き・ありがとう。愛してる。」と言われ、真愛を抱いて逝き、亡くなった後も愛され続けるほど、真愛に愛を誓わせるほど真愛を愛して逝った厚洋さんのように「お終い」を迎えたい。 
 でも、絶対無理。厚洋さんがいないもの。
 だから、真愛は、紫陽花のように
「ありがとう。綺麗に咲いてくれて。」
と言われるような「お終い」を迎えたい。

 

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります