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どこでも上を向いて歩こう

 先週の日曜日にコンサートやシンポジウムのはしごをした。
 何年も前から行っている房総楽竹団。
 すべて手作りの竹の楽器で演奏するグループだ。
 いろいろな場所での演奏を聞いたが、この三舟山の中で行う演奏は格別に良い。
 野外音楽と言うのは音響がかなかなか難しい。反響板が無いので空の上に吸い込まれていく。
 その響きは清々しさを感じる。
 作られた残響音ではない。

竹だけで…。

 その日の演奏会は、ほんの30分で終わってしまった。
 メンバーの具合が悪かったり、急な用事ご出来たりで思うように演奏ができなかったのだ。
 鑑賞料は「投げ銭方式」と言って、籠の中に自分の思いの料金を入れてくる方法だ。
 日本語教室のボランティア仲間さんも出ていて、とても素敵なので毎回見に来る。
 そして毎回投げ銭も同じだ。
 どこの演奏会とも違うのは9人の大人に混じって6歳の子・今年3歳になる女の子が演奏していることだ。
 なかなかの演奏家である。

素晴らしいリズム感


 その子の成長を見るのも楽しい。
 今年は二人の下に男の子が生まれたと言う。 
 あと2年もすればこの楽団の中の一員になるなと思う。その頃には上の子が小学校3年生になっているのかな。楽しみである。
 はしごをしたので、アンコールも聞かずに
次のところに急いで行った。
「地元の若い演奏家を育てる」と言う知人がいて、その方の紹介でチケットを買った。
 投げ銭の料金と同じくらいだ。
 何度か聞いたことのある演奏家もいた。
 その日の大物は、最初ののギタリストだったらしい。
 真愛は、遅れて行ったので全ては聞けなかったが、ダニエル コフリンさんの最後の曲
「小鍛冶」という曲を聞いた。
 なかなかの演奏技術だった。
 アコースティックギターなので、クラシックかなと思ったが、ポップスだった。
 厚洋さんはフォークギター、真愛はクラシックギター。「アルハンブラの思い出」なんて曲が好きだったので(暫くぶりに聴けるかな?)楽しみに入ったが…。
 大音量で、叩きつけるような迫力のある演奏だった。舞台際ギリギリまで出て、ピンスポットを浴びて演奏していたので、2階席から見ても結構な迫力だった。
 暗転の深さもそれはそれは漆黒状態で、人の目は明かりに集中する、隣の人の顔すら見えなかった。
 素晴らしい演奏家なんだろうが…。
の感じである。
 なまじ「さだまさしのコンサート」なんかに行ってしまうと、「舞台演出」「生バンドの質の高さ」「音響効果」etcに耳が肥えてしまう。
 若者を支援したいという知人の思いだけで、その場に留まった。

イロハ カンタービレ

 次に紹介されたのは、お琴と尺八だ。
 「もののけ姫」を聞かせてくれて、お琴と尺八が和の世界を表現できると言うのだが、「もののけ姫」は米良美一氏のカウンターテナーで歌われてこそ、あのアシタカが思うサンと狼が表現できるのだと思った。
「和」では無い、「人間と自然」の表現なのだと思う。これはあくまでも「個人の感想」なので食い違って仕方がない。
「壱越」という山本邦山の尺八の曲をお琴と一緒に演奏してくれた。
 壱越とは、十二律の一つで、伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの音のことだ。※三分損益法に基づく、1オクターヴ内の
 12の音である。
 律とは本来、音を定める竹の管であり、
 その長さの違いによって12の音の高さを定め
 たという。
 日本における十二律は、
壱越いちこつ : D
断金たんぎん : D♯
平調ひょうじょう : E(真愛が知っているもの)
勝絶しょうぜつ : F
下無しもむ : F♯
双調そうじょう : G
鳧鐘ふしょう : G♯
黄鐘おうしき : A
鸞鏡らんけい : A♯
盤渉ばんしき : B
神仙しんせん : C
上無かみむ : C♯
 初めて聞く曲なので、(古典の曲ね!)と楽しみに聞いた。
 箏者の何度も持ち上がる煌びやかな大きな仕草が華やかな音に相まって、なかなかないように見えた。
 ふと箏という伝統楽器なのにもかかわらず、古典の曲を弾いているのにも関わらず、こんなにも軽くて良いものか、と思ってしまった。
 若い演奏家の解釈はこういうものなのかと考えさせられた。
 芸大出身の2人はとても上手なんだと思う。 
 しかし、真愛の好きな尺八は、やっぱり善養寺恵介先生の音が美しいと思う。
 竹という真っ直ぐな物が出す音。
 伸びやかな竹、風にざわめく竹、
 雪の重みにしなる竹。
 木漏れ日に音が聞こえる物。
 この竹から作られた伝統楽器で奏でる
「壱越」って短調でしょ?
 演奏されるのは、季節の変わり目(土用)のことかしら。
 あんなに激しく甲高い演奏なのだろうかと悩んでしまった。

 しかし、尺八箏者は尺八の首振りについて説明してくれた。
 縦に触れば音が変わり、横に触ればビブラートがかかる。説明は、音楽の先生のようにとても上手だった。
 お琴の方も箏ついて説明してくれた。
 いつもなら絶対にしない、演奏前に、琴柱を立てたまま、琴の裏を見せて共鳴を教えてくれた。お琴を初めて見たり聞いたりした子にとっては最高の学習時間だったと思う。
 演奏家になるよりも、音楽の先生として、子どもに最も素晴らしい素敵な和楽器を教えてあげられる人になると良いのではと思ってしまった。

 さて、はしごして気づいたことがある。
 房総楽竹団も琴と尺八の方も、どちらも最後の曲が「上を向いて歩こう」だった。
 嫌な社会だから、下を向いて泣きそうな社会だから、みんなで「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように…。」と表現したいのだろう。 
 あるいは「ご一緒に歌いましょう。」と言って一体感を出したかったのだろう。
 真愛も厚洋さんも「上を向いて歩こう」は大好きな曲である。
 でも辛くて悲しくて…。
  ほんとの思いを伝えてくれるのは、やっぱり坂本九さんの声と中村八大さんのピアノかな? 
 どちらの演奏も決して嫌な演奏ではなかったでも合わないと思った。
 良い曲があると、どんな演奏家もその曲を演奏したいと思うのだろう。
 でも聞き手の真愛は、「あの声で、あの編曲で、あの楽器で演奏したとき」にその曲の良さが出るのではないかと思っている。
 さだまさしのファンである真愛は佐田さんの曲をカバーした人のCDを買った。
 一生懸命『この人の歌い方がいい』と、佐田さんが言うから、(この人のこの声でいいんだ)と自分に思い聞かせながら聞いた。
 でもやっぱりさだまさしさんの曲はさだまさしさんが歌ってこそなのだ。
 さだまさしさんが山口百恵さんのためにかいた曲だから山口百恵さんの声で聴くのが一番なのだと思っている。
 先日のコンサートで20代で歌った
「引き潮」を70代のさだまさしさんが歌う。(おお!頑張って高音を出している。
 でも昔のさだまさしさんの声が好きだ。)
 これが違う人が歌うとやっぱり変なのだ。
 こういう耳を持った真愛はおかしいのだろうか。
 どこでも
「みんなさん、ご一緒に」と
    🎶上を向いて歩こう🎶
           とは歌いたくない。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります