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端午の節句

 緊急事態宣言の延長。
 良くないのは、
・新型コロナウィルスによる死亡者が出ても驚
 かないこと。
・感染者数が1日に100人を超えてもドキド   
 キしないこと。
・ニュースキャスターやコメンテーターが知っ 
 たかぶりで話、問題を声高に叫んでも
 「またか。」とイライラしなくなったこと。
 感染症の拡大に対して「日常化」してしまったのだ。

 昨夜、10時過ぎに全国瞬時警報システム(ジェイアラート)が鳴った。
 スマホも
 真愛のガラケーも厚洋さんのガラケーも
 固定電話も(息子が心配してかけて来た。)
 テレビでも
 来るぞう!大きいぞう!死ぬぞう!
って聞こえた。
 怖がりな真愛は、どうしたらいいかドタバタ。チャーちゃんを抱き抱えているたけだった
 教員だったときも
「落ち着いて大丈夫。避難経路確保。」
なんて言いながら、自分が一番先に逃げられる体勢だった気がする。
 そう言えば、3・11の時、家にいた厚洋さんも先代のチャーちゃんを抱えて裸足で外に出たと言っていた。
 厚洋さんだって怖がりだったんだと気づいた。でも、地震・雷・大風・大雨の時は、必ず厚洋さんにしがみついていた。
 男というだけで「怖がれない」のは、辛かったろうなあと思う。怖いものは怖いのだ。

 交通事故だって死ぬほど怖い。
 飛行機に初めて乗った時も死ぬほど怖かった
 厚洋さんが亡くなった時、
「死ぬのは怖くなくなった。」
「一緒に逝けるなら、
 迎えに来てくれるなら怖くない。」
と思った。
 愛しい人にもらった生命だと思った時(拙著「白い花にそえて」文芸社版)から、独りで暮らすようになってから、
「独りで死んでいくのが切なくなった。」
「いつ死んでもいいのだが、死にたくない。」
 矛盾している。

 だから、地震の揺れに恐怖を感じる。
 「感染症拡大」を聞いた時は、地震の揺れと同じように「死の恐怖」を感じたではないか。
 にも関わらず、鈍感になってしまった真愛や世の中に恐怖を感じた。

 今日は、端午の節句。
 厚洋さんと結婚してからずっとこの日には、菖蒲湯に入る。

古人(いにしえびと)の習わしが好きだった彼は、お得意の能書きを話しながら晩酌をした。
 かつて、奈良時代に疫病が流行ったとき、仏様にお下がりしたのが「奈良の大仏」。
 昔から、端午の節句には厄を払う為に家の軒下に「薬玉」を下げた。
「菖蒲湯に入ると頭痛持ちが治る。」
 迷信と分かっても、正体の分からないものへの恐怖を払拭しようとする人々の想いは理解できた。
 厚洋さんがいなくても去年もやった年中行事だ。やらないと気になる。
 また、明日は潤子先生の旦那様の49日。
「よし、蓬を摘んで薬玉を作り、柏餅と一緒に届けよう。」

抱えきれないほどの蓬を摘んで。

大きな大きなよもぎ玉にする。

 そこに菖蒲の葉を差し込んで
 薬玉の出来上がり。
 粒あん・こしあん・芋あんの柏餅。

 我が家の軒下にも薬玉をぶら下げて、
お参りに出かけた。

 マスクをかけての会話だったが、「夫を亡くした女同士」は、ちょっと長く話してしまった。
 お互いの旦那様と話したこと。
「世の中が荒んでいるんだ。いずれ大きな力、自然災害や疫病で人類は反省を余儀なくさせられる。人が傲り高ぶったしっぺ返しが必ず来る。」

 薬玉だけじゃ効かないが、
     「今、私に出来ること」
        を考えて生きる事だ。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります