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誕生日参り

 5月30日は、真愛の母の誕生日である。
 亡くなってすでに18年も経っている。祥月命日は、9月5日なので、毎月5日には、母の好きだった海苔巻きをお仏壇に供える。
 このコロナ禍で、会えない息子から
「ばあちゃんの誕生日だったから、お墓参りに行ったよ。」
とLINEが入った。
 母の墓所は、東京永代橋の近くにある。
 東京が緊急事態宣言下にあるために、御施餓鬼も命日もここ暫く行ってない。
 お墓掃除や御塔婆はお寺に頼んでやってもらっているが、直接お参りできないのは切ない。
 ところが、東京に住んでいる息子が、密を避けて、空いている日曜日に家族で出かけてくれたのだ。

 息子は、おばあちゃんっ子で…。というより母親が忙しさを理由に、自分の母親に預けることが多かったので、おばあちゃんに育てられたようなものだ。(私が育てるよりずっと良い子に育っていると思う。)
 母も孫が大好きで、「人生のうちで拓君(息子)を育てている時が、一番穏やかで、幸せだった。」と言わしめるほど、孫を愛していた。
 人の思いは必ず伝わるのだ。
 自分の子供が「自分が見てもらっていた時のように」御墓参りをする様になったのだ。
 それも、息子から
「ばあちゃんの誕生日だから、墓参り!」
 嫁さんも良くなければ、こうはならない。
「旦那のばあちゃんの誕生日だよ。」
「それも、亡くなって18年も経ってる人」

 手桶に水を入れて抱えている孫と柄杓を大事そうに持つ孫の画像が送られてきた。
 この後、お決まりの「水かぶり」となるのだが、
「パパに綺麗なお水ですって、渡してあげて」
とお嫁さんの声が入っている。
 家族中で、お墓掃除をしてくれのだ。
「母の日参り」なんて宣伝もあるが、「誕生日参り」である。
 と書いているうちに、「命日」よりもこの
「誕生日参り」が大事なのではないかと思うようになった。
 亡くなった日も忘れたくないが、その人が生まれた日は、もっと忘れたくない。
 何故ならば、その人がいなければ「自分」は、生まれてきていないからだ。
 最愛の厚洋さんが生まれてくれなければ、真愛と会うことすらできなかったし、拓が生まれることなどない。
 母が生まれなければ、真愛も生まれない。
真愛が生まれなければ、拓はも生まれない。
 歳をとると息子に教わることが多い。
(私の場合、ずっと息子に教わることが多かった気がする。)

 息子に言われて気づいた「誕生日参り」
御墓参りはできないけれど、お仏壇に母の好きだった太巻寿司とチョコレートを供えた。
 そして、私に繋がる全ての人と厚洋さんに繋がる全ての人に感謝した。
 命を繋いでくれてありがとう。
 孫達のためには、お嫁さんに繋がる全ての人にも感謝である。
 今、ここに生きていることへの「感謝」である。
「誕生日参り」いい言葉だと思った。

 この翌日、愛猫のチャーちゃんが逝った。
 にゃーにゃおばちゃんと呼ばれていた母にも迎えに来てもらっていたのだろうか。
 縁とか偶然とか、本当に不思議だと思った。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります