クリスタルの雨と吐き気と「あなたに会いたい日」
ああ。雨が降っているなぁ。
縦に降っている雨音だ。
屋根に染み込むように降っている雨音だ。
雨音を聞きながら 伸びをする
寝返りを打って 雨音を聞く。
もう少し寝よう。
吐き気と痛みがこないうちに
気持ちよく寝たい。
右脇を下にしながら雨音を聞く。
カーテンを開けたら
クリスタルの矢が
青い紫陽花を射抜いているのだろう。
出掛けなくてはいけないのに
冷たいシーツの方へ足を伸ばす。
あなたのいない広過ぎるベッドの上で
「雨が降ってたね。」と、呟く。
彼の勤務校に教育実習に行ってた時も
紫陽花の時期だった。
自転車で通っていた真愛は、雨の日も
お下げ髪から雨水を滴らせて登校した。
雨合羽を脱いで、カバンを拭いて、
頭を拭いた。
渡板には足跡がついた。
足を拭いて白いソックスを履いた。
宿直室から見ていたのだろう
彼は手拭いを二本も渡してくれた
「パンツも濡れたか?」
冷たい雨に濡れ、冷えた顔だけが火照った
「大丈夫です。」
図星だったので返す言葉を持たなかった。
兄にも同級生の男の子にも
言われたことがない言葉だった。
彼は、真愛の指導教官と同学年の先生。
若い男の先生なのに
お爺さんのように猫背で話さない。
「おはようございます。」と明るく言っても
「……。」
何を怒っているのか分からない人だった。
ただ、体育の指導実習の時の彼は
いい先生だった。
羨ましいほどに子ども達に好かれ
映画のワンシーンを見ているようだった。
そんな先生に
話してもらった一番最初の一言が
「パンツも濡れたか?」
その日を界に、良く揶揄われるようになった
木曜日の校内研修は、習字だった。
地域の斎藤翠谷先生が来て本格的な書道だ。
落ちぶれる前の母は、書道教室を開いていたし、高校の頃は、安上がりな書道を専攻した真愛は、自信があった。
教官と彼との間に挟まれて、練習をした。
「じゃ。できた人から、持って来てください」
の講師先生の言葉と同時に
彼が、トコトコと作品を持って行った。
(早い。きっといっぱい直されるね。)と思っていた。
「良いねぇ。上手い。
はらいも気持ちよくできたね。」
褒められてる彼をボーと見ていると、花丸が沢山ついている半紙を振りながら、自席に戻り様に
「下手だと思った?
黒板の字はお前と変わらんが、書家だぞ。
まっ。チビちゃんはもっと練習ね。」
と言い片付け始めた。
「奥平さん。教生を揶揄わないの。」
と、教官(学人主任)に叱られていた。
彼は、教生の間中、揶揄いながら可愛がってくれた。
精錬授業は、「虫メガネの働き」。
前日から雲行きがおかしく、雨が降りそうだった。目標は「虫メガネの焦点を発見させる」ことだが、太陽が出ないでは授業にならない。
そこで、OHPを光源にする計画も準備した。
各班と教師用を合わせて7台のO H P。
「雨が降ったね。」
予想通り機材を使って進めた授業。
導入も、予想も、実験準備も上手く話し合い
「さあ、各班で実験してみましょう。」
初めて1分。
「あ〜?・・・」
と、カセットテープは切れている。
ヒューズが飛んだのだ。
(機材+理科室全体の照明)の電圧×時間
の計算ができていなかった。
ヒューズを取り替えてくれたのは彼。
(私なんか教師になってはいけない)と思った
その日の研修会(反省会)には、
彼は出張でいなかった。
それがせめてもの救いだった。
会が終わって、職員室の机の上に
手紙が置いてあった。
彼から。
大島さんへで始まる2枚に渡るコピー用紙
真愛も嬉しかったのだろう。
(48年間ずっと取っておいたのだから)
午後出張のため話し合いに出られませんので気づいたことを書きます。
(懐かしい彼の丸文字)
人には見せず、話にも出さないでください。(シャイでかっこつけマンでズキュン!)
とんだハプニングがあって大変でしたね。
この授業をするための苦労が水の泡になってしまうと思いました。
でも、明るくて とても良い授業でした。(とても心配してくれていたことがよく分かる。だってブレーカーを一番に直しに行ってくれたのは彼だったもの。)
8項目の注意点を書いた後、
何はともあれ 本当にごくろうさん。
職につかれても 子どもから好かれ
りっぱな教師になれることは 断言できるよ。
健闘を祈ります。
この手紙で教員になろうと考えたのだ。
この後、ずっと真愛が退職するまで
いや、彼は亡くなるまで
自由に伸びやかに
やりたいことをやらせてくれた。
揶揄いながら育ててくれた。
揶揄いながら守ってくれた。
彼は、愛しい旦那様。
彼が亡くなってから646日
「雨が降ってるね。」
吐き気と立ちくらみに耐えながら書いた。
あなたに会いたい。
今、迎えにきてくれたら
喜んで一緒に逝ける。
雨音を聞きながら、胃液を吐いた。
この苦しみが
今を生きている証。
まだ、
「健闘を祈ります!」って
言っているのですか?
ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります