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宗教は俺一人で十分だ

いつか、ネットかテレビで「自分の考えを曲げない人」を見た。その人は自分の考えが正しいと断定して、他人の言葉を聞き入れず、自分自身を盲信している。その盲信ぶりはまるで宗教の信者だった。
「自分」という名の宗教に染まっている——そう思った。




三連休に一人旅をしていた時のこと。
車のCDプレーヤーが壊れてしまった。
僕は仕方なくラジオを点けた。
久々のラジオはいい。
朝焼けを見ながら走り続ける。

女の人が話し続ける。
「生きる希望のない方へ」
「魂の〇〇」
「光の導き」

なんか、これ宗教くさいなと思った。
そうしたら

「幸福の科学」

と聞こえた。やっぱりな。
宗教団体がラジオの放送枠を持っていることを初めて知った。


僕は宗教を完全な悪だとは思っていない。
宗教が人を苦しみから救ったのなら、
宗教が人を善行に導いたのなら、
宗教は善だろう。

しかし、人助けや平和ではなく金儲けが目的なら、宗教団体は悪だろう。




【宗教】はこの世においてどのように表されているのだろう。

神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。
デジタル大辞泉
世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。(後略)
日本大百科全書
(前略)事典類によると、神仏などの超自然的存在に対する信仰、教義、儀礼、組織などをもって宗教と定義している。しかし、宗教と呼ばれる現象が多様化し、しかも宗教と宗教でないものとの境界線があいまいになってきた現在、改めて定義し直す必要がある。最も包括的には「宗教とは、本来自明ではない超自然的な存在に関わる事柄を、自明なものに変換し、人々をそのように振る舞わせる社会的装置である」と定義できよう。神仏を始めとする超自然的存在は、本来自明(当たり前)ではない。しかし信者はそれを自明のものと考え、改めて疑うこともせず、また時として、その存在について問わないことを強いられる。さらに信者は日々の生活や儀礼を通して、超自然的存在が自明のものであるかのように振る舞う。このように、人々の信念や振る舞いを方向づけるものとして、人間が作った仕組みが宗教である。
(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)
知恵蔵

ざっくり言うと、
「超常現象やべー!すげー!
 神様仏様によるものだ!
 崇めよう!従おう!」

というのが宗教だ(不適切)


上述の言葉を借りると、
宗教とは「信念の体系」である。
宗教とは、人々の信念や振る舞いを方向づけるものとして人間が作った「仕組み」である。

宗教には「信念」があり、それに行動が伴う。

これと似たものがこの世には溢れている。

会社には、企業理念がある。
学校には、教育理念や校則がある。
チームには、スローガンがある。
サークルには、陳腐な不文律がある。

一組織の、一規則に従う。
よく言えば「銘肝」、悪く言えば「洗脳」だ。

神仏に関わらずとも、
広義的にはこれらも一種の宗教と言えよう。


もっと広げて言えば、
社会には、法律がある。
人間には、自我がある。
自分の欲があり、こだわりがあり、信念がある。

それに従うのなら、自分も宗教だ。
誰しも「自分」という名の宗教に所属しているのだ。




自分という宗教があるなら、
他の宗教は要らないのだ。

「自分の考えに固執しろ」と言いたいわけではない。

自分の経験、他人の言動、社会情勢、自然の摂理などから学んで、自分の信念をアップデートし続ける必要がある。宗教から学べることがあるならそれでもいい。

自分を善い方向へ形作れるのであれば、
宗教なんて要らないのだ。
宗教に入信する必要はないのだ。


宗教は俺一人で十分だ。

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