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虚飾の花弁

この現実次元において、〈共依存〉のエネルギーというのは、その度合や性質を問わず、誰しも共通して備わっていると言っても過言ではない。

人の歴史においても、その強まりが顕著となる時期は度々繰り返され、異次元からの “観察者” においては、最も注視すべき事例となっている。

例えば、扇動者と信奉者という関係性がある。仮に自身が自覚なき信奉者であっても、信奉者に対する扇動者の依存がなければ、形として共依存にはならない。

つまり、両間者の相互の依存性があって初めて共依存というのは成立するということだ。しかし共依存じゃなくとも依存には相違ないので、必ずその者にとって必要な扇動者を懐に呼び込むことだろう。

扇動であれ信奉であれ、その行為や傾向というのはあくまで形に過ぎないが、その大元には特有のエネルギーが現存している。まさに、このエネルギーの実態こそが、観察者にとっては稀有で印象的なものだった。

例えるなら、「ここは私が…」「いえ、ここは私が…」「いや、ここは私に払わせてください」「とんでもない、ここは私が…」と、お会計の時に伝票を奪い合う(本当は奪いたくない)イメージをより生々しく絡みつくように、より撫でまわすかのような姿態のエネルギーと表現できるだろうか。

そんな共依存のエネルギーを、感覚の眼で観察されるヴィジョンの様相から、〈虚飾の花弁〉と呼んでいる。

話を戻すと、扇動者と信奉者のどちらが先に自覚すべきか、というなら、おそらく前者だと言える。たとえ信奉者が一人また一人と自覚していっても、扇動者にはさほど影響はないだろう。逆に、扇動者一人の自覚は、決して少なくない信奉者の自覚のみならず、自ずと自律へと導くだけの影響があるのだから。

永劫なる時の潮流の中、外からの影響を受け、変移してきた、この現実次元特有のエネルギーにひと度触れるならば、どれだけ注意深くあろうとしても、扇動者、あるいは信奉者に転じてしまうのは決して不思議ではない。それ自体もまた、当事者には必要な体験の一環と言えるだろう。

しかし扇動者、信奉者でいる内は、私たちは「何者でもない」という理解に至ることは断じてない。理解は決して共有される必要はなく、それはあなただけのものであり、そこに意味も理由も価値もない。己が存在した証としてパーソナルスペースにしまっておけばいい。

数多の信奉者よりむしろ、扇動者の声なき悲鳴が次元の風に乗って運ばれ続けている。繰り返したくない、終わらせたいのだ、と。

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