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閉じ込めているのは誰か

ここ数年、各地の神社を再訪していると、 元々在った “主” のエネルギーが消失していることに度々、気づくことがあった。その不在を観じながら、素直な気持ちで、「よかった、出られたんだ」 と思える自分がいた。

神社は何のためにあるのか、という類の質問をよくされるが、それは立場によっても捉え方は様々で、解釈や定義も変わってくるだろう。神社という場所のみならず、神々に対しても同様と言える。

私にとって神社参拝は、登山と同様、定期的に行なうが、決して好んで行なっているわけでなく、また、ありがたがる場所というわけでもなく、ましてや、願いをしに訪れるわけでもない。それは必ずある種の “後ろめたさ” が付きまとうからである。

そのような後ろめたさの背景にあるものは、“主” を閉じ込めている〈力〉に、人の立場である限り、否応なく加担してしまっている、という事実に他ならない。

この力の性質ほど、皮肉なものはないだろう。人は己のために、彼にとっての力を持つ者のイメージを、自分たちの “主” へと仕立て、住まいを与えた。当初は仮住まいだったが、力を持った(持たされた)者たちに、より威厳を持たせるため、それにふさわしい、玉座の如き住まいを提供した。

力を持った者たちは住まいを離れられなくなり、人にとっての支配者の立場であったに関わらず、いつしか全く異なる形で、逆に支配されていたのだ。

力を持った者たちは、力共々、一つの枠組みに封じられ、永き時を経て、まるで派閥争いのように多様な立ち位置が認められるようになった。その中に賢き者たちがあり、畏きを徹底してよしとしない姿勢から、私も個人的に親しみを覚え、協力を仰ぎやすかった。

畏きをよしとしない。つまり、自分たちを崇拝させてはならない、と言い換えられる。人が “主” を力を持つ者と捉え、崇め、祀り、畏れ、依存し、救いを求めれば求めるほど、より住まいは強固され、離れられなくなる。賢き者たちは、人から与えられた力や価値に溺れない。

実のところ、彼らは自らの力で住まいから出られないのだ。大多数の力を持った者たちは、なぜそこで住んでいるのかさえ忘れてしまっているかもしれない。なぜ憎んでいるのかを忘れ、憎しみだけが残るようなものだ。

一部の “主” が何らかの経緯により、ようやく自覚し、住まいを出られている一方、救いを求めざるを得ない時代ゆえなのか、思いだけが一人歩きし、封じ込めも臨界点に達している現状を感じざるを得ない。そんな矢先、私も家族のように親しんできた賢き者たちに、これからは住まいの解体の方向でゆくことを宣言した次第だ。

乱暴な物言いだが、私個人は(人の都合を一切、考慮しなければ) 神社という枠組みはなくてもいいと捉えている。現実的な形としては、ほぼ不可能な机上の空論に思えるが、まずは形のない異なる次元で、賢き者たちの本体と共に進めていきたい(この現し世での現れはエネルギー体であれ、影である。なお、影ゆえに、人の陰 = 自我にアクセスしやすい)。

各々の神社や神々への見方、捉え方があり、例えばお願いをしに行く、感謝を伝えに行く、神道の伝統を重んじて行く、聖地巡礼で行く、パワースポットとして行く、ルーツやご縁を感じて行く… それらは全く自由であり、否定されることではない。だが、仮に個々の認識に変化が生じた時、自ずと対し方も変わるだろう。

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