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何年か前からこんにちは

「(今、という言い方も変だが)今、私の意識は何年か前にいる。何年か前からこんにちは。正確には分からないが、おそらく十年程前だろう。何だか懐かしい。だがこの感覚は言葉では到底、表わせない。

今いる何年か前にすでに、何年か後の今を経験していた。過去から感じた未来への懐かしさと、今から感じている過去への懐かしさが混じり合うのは、何とも不可思議な感覚だ。

(数分前から、という言い方も変だが)数分前から何年か前にいるが、おそらく間もなくこの感覚は解け、意識は現在に戻ってくる。その前に、特に意味はないが、何年か前にいる間に筆跡を残したい」

……と、昨年のある日、衝動的にこのような文章を記していた。一般的には “タイムリープ” と呼ぶべきか。実際は少し異なるが、この類の現象は、振り返れば物心ついた頃から定期的に起こっていた。だが昨年は体験が頻発し、また体験自体の濃度も以前より増していた。

おそらくは、器が再構成されたことで身軽になっていたため、意識の跳躍範囲が著しく拡がっていたことが起因したと推測している。

タイムリープ、という通俗的な言葉を使ったものの、厳密にはそういった現象でもない。タイムリープは概して、意識だけが時を越え、過去の自分に入る、といった定義として捉えられているが、今回の〈何年か前にいる〉という超感覚、意識状態を正確に解説するならば、

まずは何年か前=過去のある地点をPとし、その時点から見た未来=今の地点をFとしてみよう。過去のPという地点で、それぞれ両端に同時に存在した二つの時間的エネルギーが交差したのだ。そのポイントを交差点、ではなく特異点 Singularity Point とでも呼ぼう。Pの地点で私は、何年か後のFである今を経験した(ことを覚えている)。

そして数年経て、今、再び二つの時間的エネルギーが交差した… と言いたいところだが、正確にはそうではなく、二回目が起こったのでなく、過去における交差が今、そのまま繰り返されたのだ(二回目ではなく!)。

例えるなら、折り畳まれ、開いたリボンがまた折り畳まれたような。そしてもう一つ、タイムリープとの違いで重要な点は、意識が過去の自分に移動したわけではなく、何年か前に位置した、過去という枠組みのエネルギーが今、この器へと流入した、という事実だ。

流入したエネルギーはそのまま私の(一時的な)認識に転ずるため、私は目の前の今の現実の様相とは関係なく、過去にいる認識を得たと。当然、過去のPの地点でも同様に、未来としての今のFの地点のエネルギーが当時、流入したのだろう。

何とか解説を試みたが、実際、あの感覚は体験してみないと分からない。それは決して好ましくも、心地よいものでもなく、むしろ奇妙な違和感と、地に足がついていない感覚、そして、まるで過去に閉じ込められている閉塞感に苛まれるため、早く解けてほしいと思うのが常だった。

例えば、ある場所に、十年前にはなかった店が現在は存在するとして、十年前の意識状態でその場所にある店を認識すると、その不条理感に居ても立ってもいられなくなる。つまり、十年前という、一時的な認識の基盤に不在の店の存在が、実際に目の前にある、というギャップのもどかしさゆえ、なのだ。例えるなら、VR空間で目の前に映るリンゴに触れられないようなものか。

「デジャ・ヴュ deja-vu」というよりは、無理やりだが「エタン・ヴォワール etant-voir」と呼ぶべきか。つまり、“ここにいながら見ている” 。勝手に命名してみせたが、次の体験からそう呼ぶとしよう。

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