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『オード : モード 恋と愛と』

これは19世紀末を生きた、あるフランス人青年のささやかな人生の切れ端。

彼は作家志望で、プロヴァンスの田舎の実家を離れたのち、近代化で賑わう街に単身、移ってきた。街の喧噪とは隔絶されたような、古いアパルトマンの一室が彼の居城となり、それ以後、彼の青春の日々は、ほとんどその生活感の希薄な部屋と、徒歩数分のカフェの往復で占められることとなる。

結果的に、彼は作家として大成することはなかった。その名は文字通り、無名のままであり、世間の人々が彼の名が記された作品を書店で見かけることは一度もなかった。この街で彼を知る者は決して多くはない。その数少ない彼の関係者のうち、その心に最も深く刻まれたのは、二人の女性だった。

いつ頃からか、アパルトマンの高齢の女主人は、決まって夕刻に階段ですれ違う寡黙な青年の部屋に、若い女性が出入りするのを見かけるようになる。「最初、男友達だと思ったわ。だって髪も短くて、格好も男っぽいのよ」と、何事にも無関心な、隠居した旦那にこう話したかどうかは分からない。

彼女の名は、〈モード Maud〉といった。短く切られた赤毛色の髪が印象的で、少年のように痩せた身体。緑や山吹といった自然な色合いの服を好んで着た。彼女のことを、すぐに女性と判別できる者は少なかった。青年はその数少ない一人だった。話しかけたのは彼の方だった。性が合い、気づけば一緒に暮らしていた。

彼女は夕刻になると、決まって仕事に出掛けた。青年は彼女を見送ったあと、決まって行きつけのカフェに執筆の場所を移した。彼は、夕刻から夜にかけての時間が嫌いであった。そんな時間に独りで部屋にいるのは耐え難かった。他人でも、人の気配が周りに欲しかった。部屋は深夜まで、暗がりと静寂に包まれた。

カフェのギャルソンは、ある日の午後、店のオープンテラスで小説の原稿をテーブル狭しと広げながら、コーヒーカップを傾ける青年が視界に入ると、それがとても珍しい光景であるように感じた。

「あのお客さん、来るのはきまって夕方からで、いつも店内の片隅の席を陣取っているのに… 今日は何かあったんでしょうかね」 と、店長に注文を伝える際、こう話したかどうかは分からない。

その日、若いギャルソンの思いをよそに、彼はまったく別のことに思考を働かせていた。眼下の原稿は、もはや「私はそんなことに思考を働かせているほど暇ではありませんよ」 と、暗に周囲に主張するための道具に過ぎなかった。

それは、まさにここに来る直前の出来事だった。珍しく、モードと口論をし、彼女の一言一言を思い返していた。いや、思い返すというよりは、痛みとともに、鮮明に甦ってきた。

めくるめく思考に周囲が見えなくなるような錯覚に陥らんとするその時、照りつける太陽の白い光の中に、人の気配を感じた。顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。「お邪魔かしら? 何を書かれているのか、先ほどから気になってしまって」

彼女の名は、〈オード Aude〉といった。不意にテーブルの対面に座り、好奇心旺盛な目を輝かせながら、質問を投げ掛ける彼女。モードとは正反対で、外見的にも内面的にも、どこか品があり、女性らしい女性だな、という印象を、会話中に彼女の仕草を目で追いながら、青年は持ち得た。

オードは無類の読書好きで、よくこのカフェにも、本を何冊か携えて来ているとのことだった。だが彼女は夕刻までには帰宅するため、青年とこれまで同じ空間にいたためしはなかった。

その日以降、彼女にとってカフェは、コーヒーカップを傾けながら本のページをめくる場所ではなく、午後のひと時、四歳年上の、作家志望の一人の青年と語り合う場所に変わった。彼女の目に、青年は口下手だが、思慮深い人に映った。

彼女と知り合ったあとでも、モードは依然として、青年の大切なパートナーであり続け、献身的に彼を支えていった。そしてオードもまた、青年にとってなくてはならない存在となっていった。モードもオードも、お互いの存在をまったく知らないまま、その人生を終えることとなる。

自然な成り行きでモードが青年から離れてゆき、同時に、オードもまた、青年のいない彼女の人生を歩み出したあとも、彼は何人かの女性と知り合うことになるが、結局、齢を重ねてからも特別な伴侶を迎えることなく、生まれ育ったプロヴァンスの田舎で晩年を過ごし、その生涯を閉じた。

モードとオードという二人の女性が、同時にその名を呼ばれ、その面影を思われ、その姿を映され、その二者の存在を象徴的に語られたのは、あくまで青年の心の内だけであった。

その二者の存在を象徴的に語られ…? そう、青年の人生において、唯一完成した作品はたったの一冊。この作品は一度も公になることはなく、その原稿の行方も不明である。一説によると、故郷の親しい友人により、彼の墓に亡骸と共に埋められたと囁かれているが…

その小説には、モードとオードという名は登場しないにせよ、彼女たちと共に過ごした、掛けがえのない時間に基づいたものであることは明白だった。それは端的に言って、青年にとっての、長年の “人間と世界” に関する省察の集大成でもあった。

彼女たちなしでは、それは完成し得なかった。そんな作品が一度も日の目を見ることかなわず、果たして青年の人生は報われたと言えるだろうか? 意味があったと言えるだろうか?

青年はある時期から、漠然とだが、この世界には自分しかいない、ということを薄々感じ始めていた。それを証明するため、理解の断片を拾い集めている感覚があった。この世界には自分の人生しかない。ゆえに、自分の人生で報われないこと、意味がないことなど、あるはずがなかった。

あたかも、軋む音を立てながら、枯れ葉の上を歩くようなその感覚は、彼に処女作以後、別の作品に取り組むための筆を与えなかった代償として、自己という、最も遠く離れた流刑地への、孤独な巡礼を余儀なくされた。

晩年、間もなく肉体的な死が訪れようとしている夜、彼はベッドに横たわりながら、不意に、今となっては遠い昔となる、二人の女性と過ごした日々を思い出していた。蜃気楼の先にぼんやりと映し出された記憶を辿りながら、唐突に、散らばった理解の断片が完全な形となった。

彼は理由のない嬉しさで、口元が自然に緩むのも感じていた。そう、これこそが人間たる所以。それは生きた証でも、生きる意味でもない。人間として、ごく当然のことなのだ。

夕暮れ時のカフェ。彼は手元の未完成の原稿に目をやりながら、確かに、彼自身の掛けがえのない “恋愛” が成されたことを確信し、穏やかな眠りに就いた。

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