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一人になれなかった男

私にとって、一本の “幻の映画” が存在する。

二十代前半、初めてフランスで一人暮らしを始めた際、アパルトマンの最上階の、ベッドだけ置かれたがらんどうの部屋に、帰国する留学生から譲ってもらったテレビデオ(ビデオ付きテレビ)を設置した。

近所の様子を知ろうと、目的もなく散歩していると、一軒の小さなビデオレンタル店を見つけた。何となく入店し、何となく入会した。

会員になり、一本くらい借りていこうと、店内を見て回った。とある一角に、フランス本国の作品だけを集めたコーナーを見つけた。せっかくだから全国公開されていないようなマニア向けのものを物色した。

なぜその作品をその時、選んだのかはよく覚えていないが、パッケージにあった「最後の生き残り」を意味するフランス語の表記を見て、何となくそのビデオを手にとり、受付に足を運んだ。

その作品は、今でも正確なタイトルさえ覚えていないが、粗筋はこのような感じだった。ある男が目覚めると、何らかが原因で、地球上に人類がいなくなっていた。男は誰もいなくなった世界を孤独に旅しながら、他に人がいないか必死に探す。

すると、最初に一人の生き残りの女性を発見する。警戒心の強かった彼女と打ち解け、生活を共にする矢先、もう一人、男性を発見する。最終的に三人となり、何とか協力して生きていこうと誓い合う。だが途中、あとから出会った男女が恋仲となり、主人公を疎ましく思うようになる。

主人公は、嫉妬心から二人と距離を置き、様々な策で邪魔を始める。最終的に命の奪い合いにまで発展し… というストーリーだった記憶がある。この映画は本当にシンプルに、滅亡の理由等は一切語られず、最初から最後まで、生き残りの三人の心情や行動を描いたものだった。

主人公は、どこか頼りなく平凡だが、優しい男。女は、優柔不断で弱いところがあり、守ってあげたい的存在。そしてもう一人の男は、粗野で屈強、態度や言葉遣いが荒いタイプ。現代風に言えば、それぞれ子羊男子、スイーツ女子、野獣男子、といったところか。そんな三人が誰もいない世界で共存を図ろうとする。

その三者三様の関係が崩壊していく様は、同時期にスペイン行きのバスの中で観た、ダニー・ボイル監督の『シャロウ・グレイヴ』 にも通じるところがあり、人の内面に宿る、複雑な感情や思いの緻密な描写と、行動によって生じる結果の皮肉さに、何とも言えない印象を持ち続けることとなった。

実際に通っていたビデオレンタル店

ふと、あの幻の映画のことを思い出した際、改めて、一人でいること、という点に着目している自分がいた。主人公は最初、誰でもいいから、自分以外の人間を見つけたかった。最初に見つけた女性との生活は、彼にとって理想の環境だったのかもしれない。

だが、もう一人の男の登場で、その理想は崩れていってしまう。結果的に、主人公は、自分と同じ生き残りであり、仲間でもあるもう二人を、この世から消してしまいたい、という衝動さえ生じてしまうが、仮に自ら、二人の元を去れば、それでも形としては、彼にとって二人はこの世にいないのと等しい。

だがその形を選ばず、執拗に二人を追いつめ、世界から抹消しようとするその姿勢は、自分の内側の世界を保ちたい、という願望を示唆しているのではないか、と。二人がこの世から消え、自分が一人になってでも、自分の世界を保ちたい、という発想は、最初の、誰でもいいから自分以外の人間を見つけたい、という願望に相反する。

うる覚えだが、物語の途中、野獣男子はスイーツ女子の腰に手を回しながら、遠くで武器を構える子羊男子にこう提案する。「俺と彼女がこうなったのは仕方がないことだ。だが、この世界で生きていくには、お前の知恵も必要だ。だから、そこは割り切って、前のように三人で協力し合おう」

と。その言葉は、主人公の内面で、三つの選択肢を促した。つまり、提案通り割り切って協力するか、あるいは、二人を亡き者とするか、そして、二人から永遠に離れるか、だ。

実はこの映画の結末を、最後まで観終えたはずなのに、なぜか正確に覚えていない。だが、確か次の二つのどちらかだった気がする。それは、結果的に相打ちとなり、この世から誰もいなくなった。あるいは、主人公が二人に返り討ちに遭った、のいずれか。

何となく前者だったような気もするが… いずれにせよ、結末を忘れた、という意味でも、この映画は私にとって幻の一本であり、おそらく今後も、発見することも、再見することもほぼ不可能だろう。

結局、主人公は一人になり切れなかった、と、今では思う。それは、一人でいた時も、二人でいた時も、三人でいた時も、同様に。彼がもし、一人でいられることができたならば、まったく違う展開になっていたかもしれない。それは、他の二人にも言えることだ。

女も男も、一人でいることができなかったゆえ、物語はこのような展開を辿ることとなった。多くと共にいながら、一人でいられる者は、強い。一人でいながら、一人でいられる者は、なお強い。

覚えている結末の、二つの可能性のいずれであっても、主人公の男は、いない。1から、2と3を経て、0となった。あるいは、彼自身の視点によれば、1に戻った、とも言えるだろう。つまり、私たちはどう転んでも、1なのだが、その事実から何とか逃れようと思考し、行動する。

逆に、それを受け入れることが、一人で在る、という確固たる存在性の礎を足元に築き、その上で、一人でいる、という不動の精神、姿勢の実現へと直結するのかもしれない。

ちょうどこの作品を観た時、私自身、異国の地で一人、生活を始めたタイミングだったこともあり、余計に印象的だったのかもしれない。テレビデオで深夜に鑑賞後、もし主人公と同じ立場になったら… と、一人には広すぎるアパルトマンの一室で、思いに耽ったものだ。

実際に住んでいた自室からの通りの風景

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