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消えたい人の消えない記憶



問. ある人がとても気落ちした様子であなたに声をかけてきて、「こんな思いをするのなら、いっそ死んでしまいたい」と打ち明けました。あなたの反応として適切なものは、次のうちどれでしょう。

a. 「死にたいと思うほど、つらいのですね」
b. 「そんなこと言ってはいけませんよ」
c. 「今すぐ精神科を受診してください」
d. 「つらいのはみんな同じですから、頑張りましょう」




対人援助のコミュニケーション学のテキストには、必ずといっていいほどこの手の択一問題が載っている。

正解はa。傾聴という、相手を受容して共感的に関わるごく基本的なコミュニケーション技法のひとつだ。発言を否定するbはもちろん、相手を異常な状態と決めつけるようなc、他人と比較して一方的に励ますdの選択肢も不適切とされる。学生のころわたしはいつも、指先にぴりりとかすかな違和感を覚えながらその『正解』に丸をつけた。


コーチングやカウンセリングの講習を受けると、たいてい「相手の話を、目を見て静かに聴きましょう。たとえ相手が自分の意見とは異なることを言ったとしても決して否定せず、まずは『あなたはそう思うんですね』と認めてあげましょう」という説明がなされ、そのあと「それでは皆さん、隣の席の人と向かい合わせになって実践してみてください」とロールプレイングの時間が設けられる。

幾度となくこういった講習に参加し、幾度となく「あなたはそう思うんですね」を練習させられてきた。否定はしない、比較したり無理に励ましたりもしない。あくまでただ、受け入れること。もとより他人に肯定的な気質の自分にとっては、得意なことのようにも思えた。



先日、とある病床の人を訪ねた。長らくの不摂生がたたって病に伏し、余命いくばくと医師から宣告された彼は、長年連れ添った妻に背中をさすられ、息もきれぎれに悲嘆を吐露した。明日を憂う思いはとめどなく、黄色く濁った瞳には涙が浮かび、そして「早く死なせてほしい」と言葉がもれた。

半ば反射的に、昔何度もお手本をなぞった「そう思うんですね」が喉元まで出かかる。
しかしわたしはついにそれを口にしなかった。彼の嘆きをねじ伏せるように、さっきまで黙って横にいた妻が彼の丸まった背をばん、と叩いたからだ。「なにアホなこと言うてんの!」

彼女は声を荒らげてまくし立てる。
「乗り越える人もいてるって先生言うてはったやろ!こんなんなってんのもあんたの自業自得なんやで!ひとりで勝手に諦めてんと、頑張らなあかん!」


めちゃくちゃだ。比較、否定、決めつけ、押しつけ。教科書でやってはいけないとされることを見事にすべて、やってのけている。

けれどその怒りは、どうしてだろう、何よりも優しく彼を包んでいるように見えた。そこには文字には起こせない、誰よりも彼を認め、慈しみ、愛する気持ちがあった。まくしたてられた言葉は一瞬だったが、その奥には何十年にわたるふたりのこれまでが存在していた。

妻の叱責に、彼はまるでいたずらをして叱られた子どもみたいにぼろぼろと涙をこぼす。うん、うん、と嗚咽の隙間から声を上げる。妻はまた優しい手つきで、彼の震える肩を支えている。


はたと気づいた。

なんだ、あの問題に正解なんて最初からなかったのだ。相手の言うことを繰り返してみせることだけが傾聴ではないし、傾聴だけがすべてではない。妻から彼に伝わったことは言葉の内容以上の情報量をもっていて、それはきっと彼らの歴史のなかで、声色、表情、ふれる手の体温までもが意味のあるものになっていたからだった。いつだってセオリーは確かに正しいが、選ばれなかったbもcもdもまた、ある関係性のなかでは必要なものとなるかもしれない。



いつも言葉の力を心から信じながら、けれど言葉の無意味さ、無力さを感じてもいる。言葉はただの入れ物で、心という贈り物を届けるラッピングにすぎない。相手のために綺麗に開けやすく包んだものは受け取りやすいが、中身が伴っていなければなんの意味もない。傷ついた人を癒し、弱った人に力を与えるのは、言葉そのものではない。その内奥に刻まれた、テクスチャーの記憶なのだ。

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