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街はドレスを着て口紅をひく

新聞の紙面を眺めていて「姉妹都市」という単語にふと目が止まった。「兄弟都市」じゃないんだな、と小学生みたいな疑問が浮かぶ。

Googleアプリを開いて検索窓に打ち込む「姉妹都市 姉妹 なぜ」。知性のない検索ワードだな、こんな丸腰でも情報に即時アクセスできる時代に生まれてよかったな、と思う。


「姉妹都市」たる単語のルーツは1956年、アイゼンハワー米大統領が欧州市民との国際交流を深めるべく提唱した「市民と市民のプログラム」において「sister cities」という表現を使用したことに始まるそうだ。

「city(都市)」という英単語は、欧州において女性名詞として扱われていた。たとえば「ship(船)」がそうであるように、文法上、女性として扱われ、代名詞には「she」をあてがう。女性名詞はほかに「car(車)」や「gun(銃)」など、男性が愛着をもって大切にするものに多い傾向があるらしい。


「姉妹都市」の疑問が解けた。言葉の性別が女性だから、ふたつの都市の親密なリレーションシップを示すのに、brotherではなくsisterを選んだ、ということだったのだ。


数分間のかんたんな調べ物にすぎなかった。しかし、それからまるで呪いをかけられたように、街そのものに女性の顔をみてしまうようになった。

なるほど街は女性のようだ。かつて男たちが誇りをかけて我がものとし、奪い合い、守ってきた。ひとの暮らしを産み育て、ハレの夜にはめかしこみ、季節ごとに装いを変え、いつしか老いて忘れ去られる。

この街はどんな服を着て、どんな化粧をして、どんな言葉でどんなことを喋る女のひとだろう。歩きながら景色のなかに、彼女をみつける作業が楽しくなる。
いうまでもなくそれはわたしの目に映る顔にすぎず、わたし個人がその街で出会った人や経験したことに影響された姿かたちであるに違いないのだが。

大阪梅田。
大学受験のことで母親と衝突して家に帰りたくない放課後、部屋にあげてくれた友達。座布団もラグマットもない畳に、制服のスカートが皺になるのも構わず座り込んで、あの先輩が結婚したとか、駅前のしまむらの隣にスタバができるらしいとか、他愛ないお喋りをする。思い出したようにふと、おしり痛いやろこれ使い、と転がっていたキティちゃんのクッションを半ば強引に押し付けてくる。
鴨居にクリーニング屋のハンガーで、彼女の好きなロックバンドのロゴ入りタオルがぶら下げられている。おすすめのCDある?とそれを指さすと、彼女は待ってましたと言わんばかりに「にっ」と音の聞こえそうな笑みをみせる。


神戸三宮。
祖父が入居している老人ホームに面会に訪れると、いつもサンルームで姿をみる老婦人。椅子に腰かけて背筋をすらりと伸ばし、テーブルの上で鍵盤を弾くように、指を小さくおどらせている。紫のカーディガンの肩にひとすじ、落ちた白髪が日差しを浴びて光っている。そばに立てかけた杖の持ち手に、筆記体のアルファベットで名前のようなものが彫り込んであるのが見えた。あのね彼女クラシックだとかジャズだとかのピアニストかピアノの先生かなにかをされててご主人もオーストラリアだかイギリスだかとにかく外国の方だったんですってオシャレよねえ、とおしゃべりなヘルパーのおばさんがいつか言っていた。
窓ガラスの向こうには住宅街が広がっていて、目をこらすとマンションの隙間に、ほんの数センチの鈍色の海が見える。彼女の瞳にはあの海が映っているのだろうか。

京都河原町。
朝7時13分の地下鉄で、いつも向かいに座っている女のひと。マスクをしているから顔は半分しか知らないけれど、たぶんどこかの会社の新人社員なのだろう。服装は毎日オフィスカジュアル、就活生みたいなバッグを持って、靴はなぜか白いキャンバススニーカーだ。くせのないロングヘアーは、シンプルな茶色い丸ゴムでひとつにくくってある。
一度だけ、彼女を金曜日の終電で見かけたことがある。見覚えのある足元の白色に気付いて視線を上げると、コンビニのレジ袋をひざに乗せ、俯いたままうつらうつらと頭を揺らす彼女がいた。朝には髪を結んでいるゴムが左手首についていて、ほどけた長い髪が顔をすっかり隠してしまっている。降り過ごしてしまわないか心配だったけれど、こちらは彼女の最寄り駅がどこか知らない。変に声をかけてほんの数秒でも気まずい空気が流れたら、彼女か自分のどちらかが、朝に乗る車両を変えてしまう気がした。結局、眠っている彼女の肩をたたくことができないまま、先に下車した。次の月曜日の7時13分には普段通りに、目を合わすことも挨拶を交わすこともなく、彼女の向かいに座っている。


過去に出会った女性のことも思い出す。


札幌。
大学院の、人懐っこい気配り屋さんと評判の後輩。きょうは午後のカフェテリアで、ひとりきりでノートパソコンとにらめっこしている彼女を見つけた。まあるい輪郭の顔に大きなヘッドホンをしているから、まるで水の分子モデルみたいなシルエットだ。遠くから手を振ると、水分子はぺこりとお辞儀をしてくれて、重みで分子結合が外れそうになるのを、両手であわてて支えている。


東京。
小学校2年生のとき、クラス担任だった新卒の先生。若くて、きれいで、優しくて、お説教をしているのを見たことがなかった。どうにもともだちみたいな感じがして、わたしたちは敬語も使わず、先生の下の名前に「ちゃん」をつけて呼んだ。こらー、と彼女は笑っていたが、これが隣クラスのおばさん先生に見つかると面倒だった。最初のころはふんわりした春色のスカートがよく似合っていたけど、中庭に並んだ朝顔に支柱を立てるころには、職員室のほかの先生とおなじような黒いテーパードパンツが彼女の制服になった。


名古屋。
隣町に住む、年の離れた兄の長女。このあいだお宮参りをしたような気がするのに、今年でもう中学にあがるらしい。このところずいぶん背丈がのびたけれど、褒めるつもりでそれを指摘すると、少しいやな顔をされてしまった。プリキュアやポケモンには興味がなくて、いまはサボテンにお熱だという。女の子というやつはどうにもむずかしい。


博多。
バイト先のコンビニで昼間、たまにシフトが被るシングルマザー。近所だとママ友に会ったときめんどくさいからさ、とおもちゃみたいな三菱ミニカで峠をひとつ越えて出勤している。夜はスナックのカウンターに立っているそうだ。ハタチになったら遊びにおいでねー、と渡されたショップカードは、その日バッグに入っていた教科書に挟んだままにしている。


こんな遊びをしていたら、いつもの街のすこしの変化もなんとなく、気になってしまう。前髪切った?その色けっこう似合うよ。今日ちょっと疲れてるね。
まだ出会ったことのない街はどんな姿だろう。Googleマップを開いて、現在地を親指と人差し指ではさみ、うんとピンチインしてみる。縮小、縮小、縮小。4、5回の操作で世界地図ができあがる。今度はランダムに拡大、拡大、拡大。知らない土地、知らない名前で画面がいっぱいになった。まだまだ、女遊びはやめられそうにない。

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