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雲の上の交差点


「この機体、コンセントないみたいやね」

土曜の夜、羽田-神戸113便。定刻より10分遅れて、機体がママチャリくらいの速度で滑走路へと移動しはじめる。

隣に座った40代くらいの女性が、座席の下をごそごそと手で探りながら、わたしに言う。

「行きは付いとうやつやってんけど」

わたしもです、と返答して、自分と同じ訛りで喋る彼女との会話がはじまる。


彼女はきのう、東京で開かれた好きなアーティストの個展に行ってきたのだという。そのイベントのことはぼんやりと聞き及んでいて、わたしにもわずかながらに予備知識があったから、それを足がかりに話を聞く。良かったですか、と尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。

機体が滑走路に到着し、スピードを上げていく。
クレッシェンドのかかる轟音、重なるようにアナウンスが流れると、自然に会話はぴたりと止まる。機内に走る緊張。

旅慣れた人はダウンロードしておいた映画なんかを観ていて、顔も上げない。通路を挟んだ向こうの老夫婦は、道順かなにかを事細かに記したくしゃくしゃのメモ用紙を手元に、不安げな顔で窓の外を覗いている。どこからか、子どもの泣き声が聞こえる。


浮遊感、しばらくして、重力が身体をぎゅっと座席に押し付ける。離陸したのだ。窓の外で、街並みがジオラマみたいに小さくなっていく。


隣の女性が、深く息を吐く音が聞こえる。
それを合図に、止まっていた会話がまた流れ出す。地上でのやりとりよりも、どこか親密に。

なにかひとつの大きな仕事を一緒に成し遂げたような気がした。実のところは、ただ座っていただけなのだけれど。

地上を離れるという非日常的な体験を共にした見知らぬ誰かは、その一瞬、命どうしが近い場所にあるのかもしれない。運命共同体、という月並みな5文字が脳裏をかすめる。

名前も知らない彼女と、住んでいる場所や仕事のことを話す。エンジン音に負けない強さで、けれど誰かの眠りを妨げないようなやさしさで。

東京へ向かった昨日の朝の飛行機も偶然同じ便だったことが分かり、なんだかうれしいですね、なんて言い合った。

空は、遠い世界に思えるあの大都会とわたしの街を簡単に繋いでしまう。ものの1時間ほどで、機体は下降をはじめる。

「『帰り』って、なんか『行き』より早いよねぇ」

彼女は座席前のテーブルをぱたんと閉じて、窓の外を見つめる。また、わたしたちのあいだをエンジン音だけが流れる。
地面をつかんだタイヤの摩擦が振動となって身体に伝わって、旅の終わりを教えてくれる。



シートベルト着用サインが消えると、乗客が動き出す。離れて座っていた連れ合いと合流すべく、わたしはひと足先に席を立った。短い旅を共にした隣の女性にお礼を伝える。

「それじゃ、また次の目標まで、お互い頑張りましょうね」
彼女はそう言って、わたしを見送った。



帰り道、空港最寄りの駅のホームで、再び彼女の姿を見つけた。けれど、その背中は先程とは裏腹に、ひどく遠くに見えた。わたしたちは雲の上ですれ違い、もうそれぞれの道を歩いている。

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