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療養日誌①

1日目。


気分が悪くて目が覚める。iPhoneの画面で時刻を確認する。朝の4時半。数分前に上司から、職場に体調不良者が出たので対応のため早めに出勤できないか、と連絡が来ている。体温を測ると、38.6の文字が表示されている。

いただいた連絡で申し訳ないがこちらも体調が優れない、と返信をする。のそのそと布団を這い出て、手元に置いていた簡易キットで、例のウイルスの反応をみる。鼻腔ぬぐい液の採取だけでも苦痛で仕方がない。これまでも何度か検査は受けているが、自分でやるのがいちばんつらかった。

プレパラートみたいなテスターに、スポイトで検体を染み込ませて、結果が出るのを待つ。熱のせいか、綿棒と格闘したせいか、背中をいやな汗が流れる。人生で一度だけ、妊娠検査薬というものを使ったことがあるのを思い出す。あの時の吐き気にも似た緊張感に比べたら、大したことはない。最悪な記憶にも救われる時がある。15分後、テスターの「陽性」のところにくっきりと、赤紫のラインが浮かび上がる。


起床していることは分かっているので、朝早いが上司に電話を入れる。最近どこか他者と接触する場所に行ったか、と訊ねられる。えっと、友人と食事に行きました。ついたてはあったか、と聞かれて、ついたてという久しぶりの単語に耳が追いつかず、なんですか、と聞き返す。ついたて、アクリル板、パーテーション。ご丁寧な言い換えでようやく理解する。ありませんでした、と返答すると、電話口で大仰にため息をつかれる。先週末は確かに友人と食事に行ったが、それは実のところ、アングラな音楽イベントで不特定多数の酩酊者ともみくちゃになった後の、ささやかな打ち上げのことだ。嘘ではないが、到底真実をつまびらかにはできない。ともかく、すみません、申し訳ありませんと謝る。


シェアハウスのほかの住人たちが起きてくる前に、キッチンのある1階に降りて、米を炊いてストックする作業にかかる。前日買い物に行っておいてよかった。当分、飢えはしないだろう。

ろくに味のしない卵粥を啜って、床に就く。頭がずしりと重い。胃薬と一緒に解熱鎮痛剤を飲み下す。ぼやける視界のなかで、各方面に謝罪と報告の連絡をする。眠る。


それからは寝たり起きたりを繰り返して、起きるたびに身の置き所なく過ごした。

歯の浮く感覚がして目覚める。外が薄暗くなっている。カーテンを閉め切って体温計を腋に挟む。熱が39℃を越えていた。ふらつく足で下へ降りると、同居人がポカリスエットを冷蔵庫に入れてくれている。脱水予防にはポカリを水で薄めたものがいちばんいいと、真夏の苗場で身をもって知った。ポカリとハイネケンしかないフジロックをサバイブする、確実なライフハックだ。それを水筒にたくさんつくる。冷やし茶漬けを食べ、眠る。


夜、指にぬめりを感じて目覚める。氷枕の代わりにしていた保冷剤が破れ、内容物が漏れている。新しいものを取りに行く余裕もなく、ゴミ袋に放り込む。眠る。


首が痒くて目覚める。起き上がると、布団の上を小さなムカデが這っている。咬まれた様子はない。ティッシュで摘んで、いつもならトイレに流すところ立ち上がるのも億劫で、力いっぱい握りこんで駆除する。蚊帳を突破したバイタリティは評価に値するが、それに免じて許せるほど、他人の病床に侵入する罪は軽くない。復活を遂げる様子がなくなったのを確認して、やはりティッシュごとゴミ袋に放り込む。時計は2時を回っている。眠る。

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