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呪い:嫌われ者になるために


noteのアカウント名を変えました。


きっかけは、元々使っていた名前が短すぎて検索しづらく、アカウントを探してくれる方たちに苦労をかけたことでした。

しかしいちばんの理由は「『文章を書く自分』にきちんと名前をつけてあげたくなったから」です。

お金をいただけるような文才はありません。ライティングとは縁もゆかりもない仕事に就いていて、それを気に入ってもいます。けれど願わくばいつかわたしの言葉が、周りの愛するひとたちの助けになれば嬉しいと思います。

今はただのメモや落書き帳になっているこのnoteですが、いつか未来に形のあるものをつくるためのトレーニングくらいにはなるかもしれません。

そんなわけで、先日よそで必要になったのをきっかけに語呂だけで決めた名前を、ここでも使っていくことにしました。


生まれ育った環境の性質もあって、会う人に合わせて人格を調整するということを幼い頃から意識的にやってきました。猫を被るとか、裏表があるとかではない、全部本物のわたしです。

大きくなって、みんながSNSをやるようになると、わたしは自然と自分の所属するコミュニティの数だけアカウントをつくりました。家族、学校の友達、趣味の仲間、ネット上でフォローしたいだれか。それぞれに対して見せたい自分に名前をつけ、プロフィール設定し、ささやかな情報を投稿したりしなかったりしました。

名乗った名前は数知れません。たいていはその場の思いつきで、16歳の頃使っていたTwitterアカウントの名前は確か『ねりこんだ』とかで、その次は『とてもよく煮た鶏肉』でした。我ながらひどいものです。そもそも、ネット上の相手とコミュニケーションをとる想定をしていませんでした。なにかのやりとりで、知らないひとに「とてもよく煮た鶏肉さん、こんにちは」とメンションされて、恥ずかしい思いをしたのを覚えています。
特に思い入れもなかったので、都合や気分に応じて名前を変更していましたし、恥ずかしながら関係性が面倒になるとすぐにアカウントを捨ててリセットしていました。

ところがどうしたことかここ数年かけて、雑多な名前の使い分けというのが面倒臭くてとてもできなくなったのです。

もうすこし格好つけた言い方をしましょう。わたしは、自分の友達を信じられるようになりました。

いくつかあったSNSアカウントはほとんどひとまとめにして、発信の必要なときはなんでもそれを使うようにしました。わたしにいろんな顔があることを知ってもきっと、わたしの大切な友達は離れたりしないことに気がつきました。わたしの持つある側面をみて嫌うひとがいるとしたら、そのひとはもとよりわたしの世界には必要ないのかもしれないのです。

自分自身がよっぽどのことがないかぎり他人を嫌いにならない性格なので、だれかに嫌われるなんて大事おおごとだと思っていましたが、周りを見渡すと案外そうでもないようでした。どうせみんな簡単に他人を嫌いになるし、些細なことで苦手意識をもつし、その評価さえささやかなことで覆されます。

だれかと接していて、このひとわたしのこと苦手だな、きっとわたしのこういうところが相性悪いんだな、と感じるときは必ずあります。悲しいかな、たとえ一度親しくなった相手でも、そういったことは容易に起こるものです。だからといって、相手に嫌われる一面をひた隠しにすれば万事解決かというと、そういうわけでもないのです。

仕方ない、と諦められるようになったのは、大人になったからでしょうか、それとも図々しくなったからでしょうか。


名乗る名前を全くひとつにする日は、たぶんこの先もずっと訪れないでしょう。匿名性を保つことは諸刃の剣ではありますが、わたしには小さな安らぎの場を与えるからです。

けれど、嫌われたって疎まれたって構わないと思えるようになったら、少しずつ自分の名前を大切にすることができるようになりました。受け入れてくれるひとが、受け入れられるぶんだけ、受け入れてくれたらいいのです。


昔から、ひとの名前の由来を聞くのが好きです。物語があってもなくても、知っていても知らなくてもいい。本名でも、芸名でも、屋号でも構いません。名前は、呪いです。良くも悪くも、込められた願いや背景にある記憶は、そのひとの在り方や見られ方に少なからず影響を与えます。たとえ初めはまっさらで深い意味のない呪文でも、使いこむほどに勝手に色がついていって、そのうちに持ち主の手を離れてひとり歩きするようになります。

この先の未来、だれかに由来を聞かれた時、くだらなくても、ささやかでも、嫌われても、答えのある名前を持った自分になっていることを願っています。これは、わたしの選んだ、わたしへの呪いです。

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