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のみこまれるのみ


ひとり、桟橋にいた。
海は鈍色をしていた。


不意に、透明な水のかたまりがひゅ、と目の前に飛んでくる。ひとつ、ふたつ。子どもが水鉄砲でも向けてきているのだろうか。水平線に目をやるが、だれもいない。


けれど水は海岸線のあちこちから、放物線も描かないまっすぐな軌道で、こちらに向かってやって来る。はじめはぽつぽつと地面に落ちるだけだったそれらは、雨の降り始めみたいに、だんだんと数を増やして、容赦なくわたしの身体にぶつかる。
ひんやりとした刺激が皮膚を打ち、服を湿らせて濃い色で塗りつぶす。



ぱちゃり、ぱちゃり。

つめたい、やわらかな、水、ぬるり、

あれ、違う、

ふるえて、へばりついて、うごめいて、

肌に、服に、髪にまとわりつく、これは、



違う、水じゃない、

これはいきものだ。イカだ。



大量のイカが飛来してきていた。


気づいた時には視界がイカに埋め尽くされていた。振り払おうと伸ばした腕に、身を引こうと動いた足に、イカたちは絡みつく。


ぬるぬるに足をとられてバランスを崩す。
転ける、と思う暇もないし、もう転ける空間さえ残されていない。イカの群れに体重が奪われる。やつらはゆっくりと、わたしを海に引きずり込んでいく。ずる、ずる。確実な意志と、明確な秩序を持った無脊椎動物たち。


不思議と穏やかな気持ちだった。呼ばれているのだな、それならば仕方がない、と思った。さよならに身を委ねた。

もがくことも叫ぶこともせず、静かに海に飲みこまれていくわたしを、別のわたしが桟橋の上から静かに見ていた。


全身が鈍色の中にすっかり消えた、その瞬間に目が覚めた。

身体が重かった。妙な夢をみたから疲れが取れないのか、疲れが取れていないから妙な夢をみたのか。たぶん、両方だろう。あんなに湿った夢のなかにいたのに、喉がからからに渇いていた。

イカごときに体力を奪われてくやしい、せめて忘れないうちに書き残してやろう。

ある日の、負けの眠りのおはなしです。

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