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火星基地の物語



僕の生まれ育った町の話をしよう。

1980年代に開発され、かつては人口増加率全国1位を誇ったという新興住宅地。ふたつの都市部とのアクセスが各1時間以内でありながら、車を10分走らせれば緑あふれる里山という、ベッドタウンとしては申し分ない好立地にある。バブル経済下で次々に住宅が建てられると同時に、有名建築家やアーティストを呼び込んだ公共施設が作られ、21世紀を象徴する夢の新都市として大々的に売り出された。

新しく綺麗な街並み、自然豊かな環境に、団塊の世代はさぞ理想的な家庭生活を思い描いたことだろう。ハウスメーカーが凄まじいスピードで建てた家々には、競争に打ち勝った世帯が全国から一挙に移住した。人の移動に伴って商業施設が作られると、遠方からも多くの客が押し寄せ賑わった。


輝かしい町開きから40年。バブルは崩壊し、当時の子育て世代は高齢者となり、子であった世代は独立して市外に流出した。かつて人気のあまり抽選で分譲された家々からは明かりが消え、増えるのは介護施設やサービス付き高齢者向け住宅ばかりだ。母校の小学校はここ数年、20人に満たない新1年生を迎えている。

交通インフラ整備や住宅開発の継続によって、人口自体は辛うじて横ばいから微減の範囲を推移しているものの、市全体の高齢化率は全国平均を上回る約40%を誇り、人口ピラミッドは教科書通りの『つぼ型』をなしている。

衰退を嘆く権利などない。僕自身、大学進学と同時に町を出た若者のひとりだ。


思えば、火星基地のような町だった。


未開の土地を開発し、さまざまなルーツを持つ人々がおしなべて便利な生活を送れるようなインフラ整備をした。他の場所ですでに発達を遂げた、標準的なテクノロジーやマニュアルを輸入して、住宅地が作られた。町のなかだけで生活が完結するよう必要なものが一通り揃えられた後に、一定水準の所得をもつ人間が移住してきて、過不足なく暮らしはじめた。

ところが外界へ飛び出してみると、地球にはこれまで見たことのないものが溢れていた。新鮮な野菜や工芸品の並ぶ商店街、独特の風習と冠婚葬祭、喫茶店や酒場のコミュニケーション、複雑に入り組んだ旧い路地や水路、言い伝えや信仰の類も。自分の生まれ育った場所には『文化』『伝統』とよばれるものがなかったのだということに、僕はようやく気がついた。それらのほとんどはマニュアルの行間に存在していて、我らが豊かなる火星基地には持ち込まれようもなかったのだ。


文化や伝統の多いことがすなわち幸福であるかというと、むしろ正反対ではないかと思う。そういうものは、人類の発展の途上で進化をやめた副産物であって、生命活動にとってはあくまでも余剰である。人間の不完全さの証、いびつな歴史の轍であるともいえる。金銭的にも時間的にもコストを食う厄介ものだ。

しかし、それでも土地固有の文化は人を惹きつける。合理的に整えられた町はたしかに住みよく、便利だったが、しかし同時に魅力を失ってもいた。「どこにでもあるもの」を寄せ集めた場所に、離れる人々を引き止める力はない。


地元の高校を卒業し、親と教師に勧められるまま、学費も学力も身の丈にあった遠方の大学に進んだ。家賃が安くてバス停が近いというだけの理由で築50年のアパートを契約し、人生で初めての引越しをした。

移り住んだのは大都市とは言い難い街だったが、何も知らない若者だった僕には十分すぎる刺激を与えてくれた。住宅街にはない色とりどりの看板に目を奪われ、夜を飛ぶ蛾のようにネオンに引き寄せられた。知らないものに出会えることが嬉しかった。ライブハウスに夜な夜な通い、J-popのランキングに載らない音楽たちに身体を揺らした。どこかの芸大生が作ったフリーペーパーを貪るように読んでは、紹介されている古着屋やアートギャラリーに足を運んだ。映画なんて作れるのは大手配給会社だけだと思っていたのに、近所の小劇場のスケジュールは見たこともない監督の自主制作映画で埋まっていた。

勉強そっちのけで居酒屋のアルバイトをして、カメラを買った。夢中になって触っているうちに、50枚に1枚だった『まあまあ』の写真が、20枚に1枚くらいの割合になった。同じバイト先の売れないバンドマンに、自分たちのライブの撮影をしてくれないかと頼まれたとき、ようやく、自分も文化というものの仲間入りができた気がした。

大学を卒業して10年余り。一度は専業カメラマンを志したが薄給に嫌気がさし、今は家電量販店で働きながら、趣味程度の撮影依頼を慎ましくこなしている。



先日、実家のWiFiの調子が悪いと母から連絡があり、半年ぶりの帰省をすることになった。自宅を出発する時、玄関でふと立ち止まり、部屋に戻って鞄にフィルムカメラを入れた。深い意味のない、ただの思いつきだ。

高速道路を下りて10分ほど車を走らせると、町の入口にたどり着く。山の面影が残る緩やかな上り坂になっていて、これを上ると、景色に映る緑が深い草木から道路植栽へと変わる。子どもの頃から変わらない、幾度となく通った道だ。

しかし、道路の上に町名を掲げた古い看板を目にして、僕は思わず車を路肩に寄せた。運転席を降りてそれを見上げる。意匠を凝らされたフォントで、大きく自慢げに文字が並べられている。日に焼けてまだらに淡くなったその色に、カメラを構えた。今しかない、ここにしかない色だった。生まれて初めて、この町には残されるべきものがあるのかもしれないと思った。


実家に着いて荷物を置くと、久しぶりに顔を合わせた親との会話もそこそこに、カメラを持って散歩に出かけた。

昔、ひとつ年上の女の子が住んでいた家。玄関先に掛かった『売物件』の看板には朝顔の蔦が絡み、錆び付いた三輪車が庭に転がっている。通っていた小学校。二棟あった校舎の片側には、立ち入りを禁止する青いビニールテープが揺れている。妹とよく遊んだ公園。動物をかたどった遊具たちが、シニアクラブのゲートボールを見守っている。駅前の広場。敷き詰められたレンガタイルには亀裂が走り、ちぐはぐな白いモルタルが詰められている。日が落ちると、壊れたものからLEDに替えられたのであろう、まばらな色の街灯が道を照らす。花壇だけは昔と変わらず丁寧に手入れされ、色とりどりのビオラの花が咲いている。
ただの個人的な懐古や哀愁ではない。いつか外の世界で探し求めた、余剰の、行間の、厄介ものの美がそこにはあった。


そうだ、人間の生活する場所には、自ずから物語が生まれるのだ。たとえ効率だけを追い求めた標準的な要素で新しい町を作ったとしても、時代の流れと気候風土はそれらを独特の質感に変化させていく。物語はその瞬間において必ず唯一無二で、人はかけがえのないものに惹かれるようにできている。


見慣れてきたはずの景色を、僕はカメラのフィルムに焼き付けて歩く。ファインダーの向こうに見えた火星基地は、記憶の中よりもずっと遠く、ずっと美しく見えた。

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