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ダイブ・イントゥ・ザ・タノシム【23/03東京旅行記④】


東京で過ごす休日の最後の日。江戸っ子のおいちゃんたちに教わったおすすめの銭湯をひとつでも多く制覇して帰ろうと、朝いちばんから寝起きのまちを歩いていく。
午後から雨が降り出す予報で、東の太陽も目覚め悪そうに薄雲をまとう。夜のかがやきとはうってかわって曖昧な色をした634mが、幽霊みたいに空に突っ立っている。鉄橋の端でおしゃべりしているふくよかな鳩たちの羽は、みごとに朝露をはじいていた。


15分ほどで目的の銭湯に辿り着く。暖簾をくぐって下駄箱に靴を入れ、木札とひきかえにロッカーの鍵を受け取って中へ入る。早朝だというのに、女湯は地元住民と思しきおばさんたちで芋を洗うようだ(関西で出会う中年女性のことは『おばちゃん』と言うことが多いのだが、東に来ると『おばさん』のほうが、どうにもしっくりくる)。そそくさと脱衣を済ませ、身体を流して湯に浸かりにかかる。


古めかしいフォントで『炭酸泉』と名前のついた湯があった。
炭酸の泡が皮膚にくっつくと大変ありがたい効能があるので湯の中では動かないようにしていなさい、というような説明が書き添えられている。悪い癖でうっかり浮かべてしまったエビデンスとかいう単語はあわてて排水溝に流して、なるべく水面を揺らさないよう、そっと身体を浴槽に差し入れた。

「今日もお天気になりそう」
「お出かけ日和ねえ」

眉のないおばさんたちが湯の中で、やはり炭酸の恩恵を受けようとしているのだろう、じっとしたまま他愛ないおしゃべりをしている。

「お花見もそろそろでしょうね」
「上野公園なんかはもう、咲きはじめてるらしいわよ」

あっ。
身じろぎしたわたしの肌から、せっかく集まったCO2たちがしゅわしゅわと逃げていく。

心を揺らしたのは正岡子規にある一句だ。


銭湯で上野の花の噂かな


いま、まさにこの風景じゃないか。
浮かれた気持ちが寄る辺なく、少しでもおおきな面積をなにかに触れていたくなって、身体をずい、と深く沈めて顎先まで湯に浸る。


思えば大したことじゃない。上野という花の名所のありふれた話題を、銭湯というありふれた場所で、朝風呂に来たご婦人たちというありふれた存在が、なんとなく俎上に載せていた、それだけのことだ。けれどその景色が、そしてそれを詠んだ子規の句が、痛烈な印象を持ってわたしに刻み込まれた。まだ風呂上がりの外気がひんやり心地いい季節、花の都でつぼみの綻ぶ気配、裸のまんまのわたしとだれか、ケのなかで交わすハレのうわさ。やわらかく湯気に包まれてほわほわと夢想がはじまってしまうのは、ありがたい炭酸泉の効能かもしれない。


ぼんやりと考え事をしていたらすっかりのぼせてしまいそうで、浴場を出てしばし涼んでから、メイクまで済ませて銭湯を出る。
相変わらず予定は何も決めていなかったけれど、チェックアウトの時間が迫っていたので宿へ戻る。ゲストハウスの奥さんが、ゆっくりしてっていいよ、と声をかけてくれていたので、甘えてのんびり荷造りをする。最後に階下のレストランバーでマスターの手作りチキンカレーをいただいて、4日間を過ごした宿を後にした。



日の暮れる前に帰路につくつもりでいた。スーツケースをがらがらいわせながら、おんなじようにがらがらやっている人々の行き交う東京駅を通り抜ける。東京土産ほど様式美なもんないよなあ、と余計な思念にとらわれつつ簡単なお土産を購入し、新幹線の予約までの時間を近くの美術館で潰すことにした。


目当ての展示をみた後、たまたま同時開催中だった『アートを楽しむ』展に入る。ずいぶんざっくりした名前の会だな、と思ったが、なるほど作品に描かれた景色や当時の楽器なんかを展示していて、平面的じゃなく絵画を『楽しむ』ために工夫がされているのだった。


やはり楽しむとは、ものごとの当事者にのみあたえられる動詞なのだろう。朝、銭湯にみた子規の句だってきっと同じことだ。わたしが確かにあの世界のなかにいて、あの瞬間当事者であったからこそ、作品をまるで自分のものみたいに生々しく肌で感じられた。

外側は気楽な場所だ。何の責任もないし、攻撃も受けない。子どもの頃、休み時間にみんなでやっていたドッジボールでは、外野にさえいれば球をぶつけられても掴み損ねても構わなかった。だけど、本当に楽しい記憶は、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら歯向かって逃げ回って戦っていた、線の囲いのなかにある。

当事者であることは少しこわいけれど、飛び込んだ世界のなかでなければ味わえない、楽ちんじゃない楽しさがあるのだ。情報との距離感が近くて、鑑賞者や評価者になるのがうんと簡単な時代に生を受けたから、気を抜くと当事者であることを忘れてしまいそうになる。本物の楽しさはたいてい、バイスタンダーには与えられない。見ているだけ、聴いているだけじゃ足りなくて、手を伸ばして触ってみる、やってみるから、はじめてわかるし、楽しめる。



帰りの新幹線。本もスマホも開く気になれなくて、行きがけにわざわざ寄り道して買ったイヤホンもポケットに突っ込んだまま、両手を肘掛けに預けてみる。降りはじめた雨粒が窓ガラスを叩く音、誰かの持ち込んだコーヒーのにおい、湿気をはらんだ空気、時速250kmで流れていく風景、シートのやわらかな感触。いつだっておもしろいものは目の前にごろごろ転がっているのに、無視してもっと強い感覚入力で上書きしてばっかりで、なんてもったいないことだろう。いまのわたしが、いまあるものを世界で一番楽しめる、まぎれもない当事者なのに。



次は新大阪、シンオーサカ。車内アナウンスが流れて、景色の速度がゆっくり落ちていく。往路よりもずっとふくらんだ荷物を連れて、駅のホームに降り立った。


おうちに帰ったら、ひとつひとつとりだして、大切にしまっていこう。引き出しに、箪笥に、本棚に、それからもっと、大事な場所にも。

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