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コード・ブルース


親友の結婚式によばれた大安吉日、電車に乗っていたら、目の前で若い女性が倒れた。反射的に身体が動く。脈拍を探りながら呼びかける。仰向けになったその女性の眼球は上転していて、反応はない。

「緊急ボタン押してください」

周りに向けて大きな声を上げる。こうやって人が倒れる時にはいくつかの理由があるけど、頭の中では瞬間的に最悪のパターンがいくつも浮かんでいる。さっきまで普通に話していたのに、数秒後には呼吸が止まっていたあの人を思い出す。もう意味がないことを知ったまま、それでもやめられなかった心臓マッサージを思い出す。手のひらを通して肋骨の折れる音が響く、あの感覚を思い出す。ためらう理由などなかった。

最初に掴んだ手首の動脈は触れていたけど、揺れるし狭いし着慣れない服装で動きづらいし、呼吸状態までははっきり確認できない。体位を整えようにも、それなりの人が乗っている車内ではまともにスペースが確保できない。

とにかく気道をと頸部に手を伸ばしたとき、ぱちり、と女性の目が開いた。意識が回復する。ぼんやりした表情で辺りを見回したあと、すみません大丈夫です、とあわてて立ち上がり、ちょうど停車した駅で降りていく。足取りがしっかりしているので、付き添わずに見送る。貧血とか低血圧とか、なにかの持病があって倒れ慣れている人なのかもしれなかった。


電車が何事もなかったかのように走り出して、その時、だれも緊急ボタンを押さなかったことを知った。


わたしだ。わたしが悪かった。ボタンを押さなかった人も、傍観していた人も、ほかのだれも悪くなかった。学校に通っているとき、運転免許をとるとき、就職するとき、幾度となく一次救命処置の講習を受けてきているはずで、「あなたは119番を、あなたはAEDを」と指名しないといけないと学んできたのに、できなかった。最初に動いた人間がその場のリーダーシップをとることになるのだから、その役割を引き受けたからには責任をもって果たさなくちゃいけなかった。何事もなくてよかったけれど、もしあの女性が回復しなかったら、あのわずかな対応の遅れがもたらす影響は計り知れなかった。






ああ、でも、本当はばかばかしいって思ってるよ。くそったれ。ぼーっと突っ立ってんなよ。動けよ。お前に言ってんだよ。

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