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神さまと第三惑星

 「神さまと第三惑星」

 わたしの好きなあのヒトは、わたしじゃないヒトが好きだ。
 わたしはこんなにあのヒトのことが好きなのに、それは変わらない。どうしようもないことを考えるのは、かなしい。どうにもならないことに苦しめられるのは理不尽だ。月夜のベッドでわたしは胎児のかたちで考える。輾転反側(最近高校の授業で習った言葉だ)して見悶えながら、ナイフみたいな殺意を感じる。あの相手が消えれば良いのに。この世からいなくなればすべて丸くおさまる。わたしはそれで安心する。あのヒトもきっと救われる。長い間苦しんだんだもの。わたしと一緒に幸せになれば良い。架空の血を浴びながら、わたしは幸福だ。わたしの好きなヒト。わたしの愛したおじさん。
 
 高二の秋になった。今年の残暑は短くて、朝晩の寒さに一気に季節が次へ移った。信州の山々は紅葉が始まって風景の色がもう夏とはちがう。気の早い友だちはさっそく黒タイツを履きだした。夏に短くした髪に風が吹き、自転車通学の途中では襟元がひやりとする。また髪を伸ばしたい。あのヒトはどうおもうだろう。気づいてくれるだろうか。良くわからない。
「都ちゃん」
 友だちだ。待ち合わせの商店前で、見ていたスマホから顔を上げ、わたしに笑いかける。このコはいつでも可愛い。髪をいじるのが好きだから毎日凝った編み込みをしている。ほっそりとして姿勢が良く、裏表がない。わたしとはちがう。男の子にもきっとモテる。
「都ちゃん、おはよう」
「あぁ、なつみちゃん、・・・おはよ」
「なに、都ちゃん元気ないね」
「元気ないよ、昨日眠れなかったよ。目にクマ、出来てない」
 なつみちゃんはわたしの瞳をじっと見つめる。
「なに、また先生のこと考えてたんじゃないの。いつもの病気、不治の病。もうあきらめなって」
「そんなこと云わないで。友だち、親友でしょ。・・・じゃあ、もう、なつみちゃんでも構わないや。今すぐ、恋人になろう。永遠にわたしだけを幸せにして」
 わたしはなつみちゃんにぎゅっと抱きつく。ケラケラと笑いながら彼女も抱きしめてくれる。そのちからが優しくて泣きそうになる。早い朝のせいだろうか。なんか情緒が不安定だ。そんなキャラでは、いつもはないのに。
「でも今日も塾、行くんでしょ」
 なつみちゃんがわたしを抱きながら云う。わたしはうっとりしていたのから、はっと我に返り、彼女の両肩を掴んでゆっくり引き離す。            「行くよ。・・・行かなきゃ」。
 先生。わたしの塾の先生。細身で垂れ目で声優のように声が甘い。英語が専門で、わたしが高校にあがってすぐに出会った。個人で経営する学習塾の、先生はそのひとり息子で、二十代、三十代を通して都立の教師だったものが三年前に仕事を引き継ぐため信州に戻って来た。最初はなんともおもわなかった。全然どこにでもいるおじさんだった。東京から来たのに垢抜けない。髪は無造作に伸ばされ、癖っ毛がすごい。服装もいつも似たような白シャツばかり着ている。ひょろひょろと背ばかり高く、痩せた上に猫背で、なんとも虚弱そうだ。しかし、わたしにだけは分かる声の良さがあった。他のヒトは知らない。誰かがそんなことを云っていたという記憶もない。それでも低音で深みのある温かな声は、わたしの耳だけに心地よく響いた。
 その授業中、わたしは居眠りをしていた。根がいい加減でなまけものだから、眠気に負けてついウトウトした。なんとなく夢まで見ていたのが、その声でぱっと目が覚めた。あれはどういう具合だったのだろう。どんなタイミングが作用したのか分からない。テキストを読む先生(名前は五十嵐と云った)の声が胸に刺さって大きく震えた。その声が頭の中いっぱいにひろがり、甘くやわらかにわたしを魅了した。それまで何度だって先生の声は聞いていたはずだ。しかしそんなことは起こらなかった。普通に、低い声だとおもっていた。アニメ好きのわたしだから、良い声には無条件で反応したりするけれど、その瞬間まではちがった。それなのに。
 目を開けて声の主を見ると、そのヒトはいた。初対面の相手を見るように、それまでとはちがうおもいでわたしは彼を見つめた。わたしは目が離せない。わたしは恋をしていた。
「そうだよね、塾、白田くんも来るんだしね」と、なつみちゃんが云う。「白田くんのきもち、知ってるんでしょ。ほら、・・・都ちゃんのこと気になってるって。ねぇ、お友だちになっちゃえば良いのに」
 そんなこと関係ない。聞きたくないし、どうでもいい。わたしにはいつでも、頭の中であの声が鳴っている。
 一度だけ、五十嵐先生の部屋に入れてもらったことがある。一年以上前だからわたしもまだ子供だった。今ならうかつにそんなこと出来ないけれど、その時はわたしだけではなかった。同級生たちと一緒に、塾の建物と同じ敷地の立派な自宅に上がらせてもらったのだ。確か土曜日で、午後の最後の授業で、夕方にはまだ時間があったから、同級生の誰か男の子がいたずらめいた声を上げた。先生、これから先生ン家遊びに行っていいですかぁ。
 先生は外見、鬱々として見えるけれど、実際はちがった。普通に常識人だ。他人とまともな会話も出来る。生徒たちと軽い調子のコミュニケーションも取れて、けしてノリは悪くない。しかしそうでなければとても個人の学習塾なんてやっていけないだろう。それで男女数人の同級生と、今おもうと図々しいが、先生の自宅にお邪魔することになった。母屋は一見小さく見える平屋で、けれど奥行きにかなりの面積があり、廊下がどこまでも続いて長かった。廊下の窓は床から天井まで大きく取られ、和風の中庭とその向こうの八ヶ岳とが綺麗に、明るく眺められる配置になっていた。建てられてからまだ間もない様子だった。色んな部分がつやつやと傷もなく新しげで、あるいは先生が東京から帰ってくるのをきっかけに新築されたのかもしれない。
 先生の本棚には元教師で塾の先生らしく、教育に関する専門書が並び、そしてそれ以上に英語の本がずらりと並んだ。ハードカバーやペイパーバッグの背表紙が、わたしからするとちょっとどぎつい色の調子を見せて整然と収まった。今おもうとあれは先生の書斎だったのだ。あの部屋でだらんとしてくつろいだり、呑気にテレビを見たりとか、そんな私生活の部屋ではなかったのだとおもう。それでも部屋は広く、ゆったり目に作られ、大きいテーブルもソファもあったから、わたしたちはめいめい自由に座ったり本を眺めたり、出されたお茶を飲んだりしてしばらく過ごした。
 そんな中、わたしは一人でどきどきしていた。近くには授業以外の先生がいた。授業中の言葉ではない声で先生が話していた。見上げるほど高く収納された本の圧力にも負けそうだ。感情の整理がつかず、ずっと無言で不機嫌そうな顔をしていたわたしを気遣ってか、先生が話しかけてきた。本当に心臓が一瞬止まった。
「その作家、知ってるの」とあのヒトは云った。声だけで胸が痛んだ。わたしは何の気なしに選び、引っ張り出した本の表紙を見て首を振った。わたしはそんなに本を読まない。日本の作家で有名なのかもしれないけれど、これは劣等生のわたしが悪い。
「先生、こんなにたくさんの本、全部読んだの」とわたしは本の背中をつつきながら云った。
「そうだなぁ、全部読んだかなぁ。もちろん好きで買ったんだからね、一度は目を通してるとおもうけど」
「なんで」とわたしは意地悪のように云った。「なんでこんなに本を読むの。こんなに次から次へ、なんで読み続けるの」
 先生は困ったような、苦笑いのような表情をして、「本を読むのに理由はないかな。単純に読むのが好きだからね。でも本の側からすると、・・・読まれる理由はあるかもしれない」
 なぞなぞみたいなことを云う。頭の悪い子供のわたしには理解できない。困ったやつだ。噛みつくときだけ一丁前で。
 ふと、知っている名前の作家がいた。新刊が出ると必ずネットニュースになるから、いつの間にか覚えてしまった。読んだことなんて一冊もないのに、タイトルだけは字面を見るとおもいだす。
「このヒトは知ってる。ずいぶんたくさん、本出してるんだね」
 並べられた本の背中を指先でつつっ、となぞる。同じ作家の名前がずらりと長く横に並んだ。短編集に長編小説、エッセイに紀行文、外国文学の翻訳などもあって、まじめなタイトルもあればふざけたようなタイトルもある。
 先生は急に黙って何も云わない。沈黙が続きわたしは不安になって振りむく。見たことがない先生の顔があった。苦悶しているような悲しんでいるような、こんな顔は初めてだ。こんなのはわたしのメモリの中にはない。おなかでも痛くなったのかな。
「有名だからね」とようやく先生が云った。「彼の出す小説はたいていベストセラーになる。新刊を出すたびに社会現象になる。そんな作家、日本にはそうはいない」
 それでわたしはおもいだす。テレビでもやっていた。本屋さんの店頭で、この作家の本がたくさん積み重ねられ、ヒトの背丈より高いタワーになって売られていた。発売日には、午前零時と同時にファンがレジに並び、先を争うようにしてむさぼり読んだ。社会には色んなことがあるんだなとわたしはおもい、しかし次の瞬間には忘れた。わたしの人生とは無関係の事柄だった。
「彼はぼくの神さまなんだ」と先生は云った。しぼりだすような声だ。泣き笑いのような表情をした。わたしは先生から目が離せない。
「彼の小説はぼくの人生のすべてと云ってもいい。ぼくは彼のような小説を書きたい。そして、・・・ぼくは彼になりたい」
 あれから一年と少し経った。先生の塾にはまだ通っている。英語の成績は相変わらずダメダメだ。しかしあのヒトがいるから無理にも授業を聞いている。先生の声を聞きたいがため週四回自転車を走らせた。
「なぁ、中江」
 名前を呼ばれた。塾が始まる前の自転車置き場で、白田くんと云う男子だ。なつみちゃんが変なことを云うから少し気まずい。
「なぁ、俺たちつきあわない。俺、お前のことちょっと気に入ってんだけど」
 高校では女子の間で人気のようだが、好みの変わった男子だ。わたしなんかのどこが良いのだろう。ちょっと理解に苦しむ。
「は、何云ってんの。ムリ」
 顔に能面をかぶり、冷たく云い放ってその場を去る。聞きたくない、聞きたくない。わたしのことなんてほっとけばいいのに。
 英語の授業に、あのヒトは秋でも夏と同じ白いコットンシャツだ。声が素敵だ。天パの髪も、ががんぼのように細く長い手足もわたしの気に入った。このヒトのためなら英語の授業も受ける。英語だけに限らない、数学でも物理でもなんでも受ける。この一年間、あの作家の本を読みはじめたりもした。先生の神さま。先生がなりたいヒト。この本の中にわたしがほしい先生がいる。このなかに別の先生が生きている。わたしはそれをわかりたい。わかって、理解し、すっかり自分ものにしてしまいたい。
「先生の小説、あたし読みたいな」
 前に、街中ですれちがったことがある。偶然の奇跡にふたたび心臓が止まり、即死した。わたしからねだって入ったのは全国チェーンの珈琲店で、つい癖でデニッシュ&アイスクリームなんて食べ物を注文してしまう。失敗した。きっと子供だとおもわれた。甘い食べ物なのに、今すぐ甘くなくなれ、と祈ったりした。
「中江さん、小説読むの」と先生は云った。声とは裏腹な、苦いブラックコーヒーが湯気を立てた。
「読むよ。あたしだって、小説くらい読むんだから」少しむくれる。
「へぇ。たとえばどんなヒトのを読むの」
 わたしは一呼吸置いて、先生の神さまの名前を云う。四文字でちょっと洒落ていて、印象が若々しい。
 先生は無表情のままわたしを見つめる。反応はない。しかし感じるところはあったはずだ。
「先生の小説、教えてよ。今はどんなの書いてるのか、あたし、知りたい」
 コーヒーをすすってから先生は少し考え、しばらくしてからみずからの小説について語りだす。おおまかに云うとこんな感じだ。主人公は小学生の男の子。彼の近所にはおじいさんが独りで住んでおり、しかも奇人変人で有名だ。自称科学者で、地震の予知をライフワークにしている。色々な実験を町中でおこなっては、白い目で住民から見られるのだが、主人公はそんなおじいさんが好きなのだ。いつもまとわりついて離れない。二人の間に奇妙な友情が芽生える。そしておじいさんはついに大きな地震が起こることをつきとめ、一軒一軒に触れて回る。はたして地震は来るのか。おじいさんと小学生との友情のゆくえは。そんな話だった。
「それで、どうなるの。地震は来るの」
「それを云っちゃ面白くない」
「なんだ、つまらない。でも書いたら見せてね。あたしが最初に読んであげる。絶対あの小説家のより、面白くなるよ」
「そんなことはないよ」先生は食い気味にきっぱりと断言した。   
「あのヒトは特別だから。ミダス・タッチを持っている作家には絶対かなわない。そしてぼくに、それはない」
「ミダス・タッチ、・・・って」
「さわるものすべてを黄金に変える魔法の手のことさ。彼にかかればどんなものでも価値のある、みんなが欲しがるものになる。どんなつまらないモチーフであったとしても、光り輝く。ぼくはそんな風には、けして書けない」
 そこではじめて、痛いような顔をした。
 わたしには不思議だ。わたしには先生だけなのに、なんで先生はちがうヒトを追いかけてゆくんだろう。なんで明るく熱い炎に自ら飛び込んで苦しいおもいをするんだろう。届かないのに、追いつけないのに、それでも神さまのもとに行かなきゃならない理由ってなんだろう。先生、わたしにしなよ。わたしなら先生ばかり見て、それで安心させてあげる。永遠に幸せに、きっとしてあげられる。
 先生の声だけ聞いて、一時間半の英語の授業が終わった。面倒くさいのは嫌だから、なつみちゃんの手を取って、あとも見ずに自転車置き場まで駆けだした。白田くんが嫌いな訳じゃない。でも彼のために時間を費やせる訳じゃない。うまくいかないな。みんなの願いは叶わないって歌も、昔にあった気がする。
 秋の星が空に明るい。田舎だからよけいに星座が良く見えた。なつみちゃんは頭がいいから、星と星の区別が良くわかる。あれはカシオペア座、あれはペガサス座、火星に木星、フォーマルハウト。
「木星ってあの木星」とわたしは云う。「そんなに遠くの星が目で見えるの」
 なつみちゃんは少し呆れたように、「あのね、惑星以外の星って、みんなもっともっと遠くにあるんだよ。惑星と恒星の違いって、都ちゃん分かってる」
 そんなの、・・・知らない。
「惑星って自分では光らないで、太陽のまわりを回ってる星。恒星って自分で光を出して、惑星を引き連れている大きくて重い星。木星があんなに光って見えるのも、太陽の光を反射してるからなんだよ。太陽がなければ地球だって光らない」
 わたしだって先生がいなければ光れない。先生の引力にひかれて、あのヒトのまわりをくるくる回る。それなら先生は恒星だ。先生は光。わたしはどうしようもなく引き寄せられる、自分では光れない第三惑星。
 考えていたらかなしくなった。かなしいと、こころがとがる。とがったナイフでまた返り血を浴びる。架空の殺意だ。かりそめの殺人者だ。わたしは自分がおそろしい。
「五十嵐先生ね、雑誌に応募した小説、最終候補まで残ったんだって。次の最終審査で選に入れば、雑誌デビューなんだって。ねぇ、すごくない」
「都ちゃん、また五十嵐先生の話なの。ホント好きだなぁ、ラブラブじゃん」
「すごいって云ってよ。先生、作家デビューだよ。ネットとかテレビとか出て、超有名人だよ。それで」
 それで先生の好きなあの作家のことも追い越してしまう。追い越して、置き去りにして、先生だけしかたどりつけない、高い場所に駆け上ってしまう。それできっとおしまいだ。神さまが神さまじゃなくなるとき。わたしはその時きっと隣にいることだろう。
 わたしは自転車を立ち漕ぎして、なつみちゃんを追い越してゆく。首筋に風がやっぱり冷たい。明るい星が遠くで光って、まるでわたしを誘うようだった。
 数週間後。しかし、わたしの期待はうらぎられた。本屋さんで文芸雑誌を立ち読みし、わたしは身動きができない。佳作にも入らなかった。先生の名前と小説のタイトルだけが、申し訳のようにたった一行だけ印刷されていた。先生ではない、知らない誰かが全文掲載の雑誌デビューをはたしていた。選考は終わったのだ。
 先生はそれまで通り、淡々と英語の授業を続けていた。癖っ毛の髪はさらに伸びた。猫背の角度が少し増したようにも見える。私だけが知っている誕生日がついこの間きて、一つ年をとった。四十台も半ばになったから、もう誰から見てもおじさんだ。しわの深さにも中年の貫禄が出てきたようにおもう。
 年が明けた二月、新聞に大きな広告が出て、神さまの七年ぶりの長編小説が発売されると書いてあった。上下巻の二冊で、今回も不思議で意味深なタイトルがつけられていた。きっとまたベストセラーになるんだろう。メディアに取り上げられ、注目されるに違いない。先生も必ず読むはずだ。そこにありえたかもしれない自分の姿を映して、苦しみながら、でも読むことを止められないのだ。
 発売日はちょうど計画休校の日だったから、電車に乗り地方都市の大きな書店まで出かけた。都会ではないので本のタワーこそ作られていなかったけれど、入口で特設のワゴンセールが出て、文芸書のコーナーでは大々的なキャンペーンがされていた。大きなポスターが天井からさがり、ちょっとしたお祭りムードだ。人々はたっぷりとして重い上下巻本も気にならないように小脇に抱え、レジに列をなした。店内の空気はざわめき、熱病のように高揚した。
 先生がいた。細い身体を人ごみに無防備にさらし、通路の真ん中に立ちすくんでいる。呆然としてお客の流れを見つめ、動かない。神さまを見ているのだ。神さまから今日くだされた本のゆくえを目で追っているのだ。
 声をかけようとして、しかしわたしは出来ない。先生の好きなヒトはわたしじゃない。わたしが好きなこのヒトは、わたしじゃないヒトを愛しているのだ。わたしはその単純なことをようやく理解した。わたしではダメなのだ。どんなにわたしが求めても、あのヒトはわたしを振りむかない。あのヒトの愛したのは物語の神さまだ。わたしにはなにもあげられない。立ちすくんで動けないあのヒトに、声のひとつもかけられない。
 神さまの本は見ているうちにも飛ぶように売れた。人間の考えた創作がこんなにヒトを呼び寄せるのは不思議だ。わたしはまるで自分が誰かの物語の登場人物であるかのように、たましいを失った空っぽなおもいで先生の背中を見つめていた。
 春が来て高三に進級した。わたしは例のあの白田くんと云う男子とつきあうことになった。彼に恋をしたのではない。離れがたい運命を感じた訳でも。しかし一緒にいて居心地は悪くない。やさしいし正直だし図々しいところもあるが、マイナス面はお互いさまだ。女子と男子がつきあう果てになにがあるのか知らない。しかし深くは考えない。今は今のことをするだけだ。
 何度目かのデートの帰り、夜の駅のホームでキスをされた。わたしが抵抗しないのでもうしばらくキスは続いた。遠い星を彼の肩越しに見ながら、わたしは先生のことを考えていた。明るい星。わたしを照らしてくれる星。わたしが愛したおじさん。
 

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