ホテルの廊下を並んで歩く前の女子たちをうらやむ男たちみたいに

初めて参加する仕事の地方出張のホテル、ベテランと新人が仲良くなれるように組み合わされて二人で一部屋に泊まることに。前半の旅程で同じ部屋になったり仕事中に話したりして仲良くなった人もいるものの、私が部屋を分けることになったのはまだあまり話すのに時間をとれていない先輩で、上に立つ人は良く見ているなと思った。

部屋に分かれてから数十分間ひと通りのありふれた挨拶を交わした。壁のある人だが同じような興味をもっている人で、私が歩み寄ればいい話し相手になれるような気がしたところで、夕飯の時間が近づいて部屋を出ることになった。すると隣の部屋のドアも同時に開いて、同じようにベテランと若手の組み合わせで止まっている女性二人組が出てきて私たちの前を歩きはじめた。彼女たちは狭い廊下で肩を並べて、きっと私たちと同じような当たり障りのない言葉を交わしているのだろう。私たちもそれに置いていかれないように探りあいの続きを進めたかったのだが、男二人の肩が並ぶのを受け入れるほど、ホテルの廊下の幅は広くなかった。しかたなく前後で並んで歩きなんとか話を続けようと試みるも、やはりうまくいかず途中で会話がそぎ落ちて移動だけが続いた。

普段は頼りがいの依り代にしている自分の肩幅の広さをこれほどまでうらんだことはなかった。前を歩くか細い彼女たちが歩くとできるそのすき間に、誰かを呼び込めるゆとりがあることが羨ましかった。「男らしく」自立した私たちがひとりで十分歩けてしまうゆえに、誰かとともにあることが難しいということは、廊下を歩くときだけではない。ものを持つときも、高いところに手を伸ばすときも、強く大きいこの体をもってすれば、なんだってひとりでこなしてきた。それができない”女どうし”の距離は、昔から”男どうし”のそれよりも近く見えた。隣に誰かが居ることができる隙間が広くある彼女たちは、私たちより分けあうことが上手に見える。

肩を寄せ合う相手を求めないことは別に必要なことではなくて、手を取り合って余分な力を手に入れればよかっただけのことだ。だが私たちはそうしてこなかった。「肩幅の広さ」とは、周りからのまなざしとか、”そうあるべき”という思い込みからくる実体のないものかもしれない。わたしたちが”広い”のではなくて、ちょうど私たちを阻んだ廊下の壁みたいに、世界の方が”狭い”だけかもしれない。

夕食を終えて部屋に帰ればまたゆったり話せるだろうと思っていたけれども、排水設備の故障で部屋移動をすることになった、お詫びとして空いている部屋をひとりで使ってもいいことになり、結局別々に寝ることになった。たしかにもともとの部屋は男二人で使うには息苦しかった。

ひとりの部屋に苦しさはなかった。けれど寂しくもあった。そして、旅館の夕飯はおいしかったけれども量が控えめで、お腹が空いてきた。私の体は、私が生きたいように生きるには大きすぎるかもしれない。

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