買ったけどまだ無いメルカリのドライヤーみたいに

メルカリで買ったドライヤーが、3週間経っても発送されない。10日経ったころ不審に思いメッセージを送ろうとしたら、プロフィールに「体調不良のため遅れます」と書いてあった。体調不良の人を急かすのも申し訳ないので、ちょっと待ってみている。より良い出品も見当たらないので、キャンセルもしない。出品者さまの身体が良くなっていく(と信じる)のと並行して私の髪が傷んでいく。生死をさまよっているかもしれないのに、髪の具合を気にして人を急かすのも小さすぎるので、ああだこうだ言わないことにする。そうして今私は、どこの誰かも知らない人の健康を祈っている。かたときも忘れずにって程ではないけれど、夜シャワーを浴びた後には必ず彼と呼べばいいのか彼女と呼べばいいのかわからないその人に思いを馳せる。
 
 そんなことをしているうちに、末期がんを患っていたおじいちゃんが亡くなった報せをある日の朝受け取った。長くないと聞いていたけれど、思ったより早かったその一報に胸がざわざわしたとき、生きていることを強く感じた。弱ってから会うたびに"死んでいく"ことははっきり感じたけれども、いざ"死んだ"となるとよくわからない。今隣にいて姿や声や匂いを感じられない存在が"居なくなった"と言われても。その報せを聞いても聞かなくても居ないことに変わりはない。でも確かに感じたざわざわは、彼の魂が私の身体を通り過ぎたときの感触で、それが死んだってことの証だったかもしれない。

 納棺に立ち会って息をしなくなった身体を見ても、まだよくわからない。骨になったところを見たらさすがにと予想していたけれども、ご飯を食べてるうちにことが終わっていたからなんともあっけなくて、いよいよちゃんとわからないまま一人暮らしの家に戻ってきてしまった。

 毎年会いに行ってる時期が来て、そこにおばあちゃんしかいないとなると、居なくなったことは実感されるのだろうか。それでも「今日はいない」としか思えない気がする。それと「明日もいない」ことをかけ合わせれば「一生いない」ことは明らかなのだけれど、感覚として理解しがたい。

 いつかは手に入れられるはずだけどまだ無いものと、もう無くて一生手に入らないものを、同じ"無い"ものとしか感じられない。となると、年末おばあちゃんを訪ねたらおじいちゃんがそこにいるかもしれないと感覚している私は、出品者さまにドライヤーを発送してもらえないことも感覚しなくてはいけないのか。思えばそれは、おじいちゃんが戻ってくることよりもずっと当たり前に起こり得ることだ。

 急に出品者さまが心配になってきた。これも何かの縁というか、顔を合わせたことがないとはいえこれだけ思いを馳せたら他人とは思えない。メルカリのメッセージ欄を事務連絡以外に使うときが初めてきたかもしれない。ちょうど私の世界からひとり消えたから、ひとり増えるのにちょうど良い。

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