向かいの家の子どもがいつの間にか大きくなっていたみたいに

隣に住んでいる祖父母+叔母とたまにいっしょにご飯を食べるといつも親戚の近況みたいな話になる。自分は年に一度の、最近はご時世もありなかなか行われない新年会でしか会わない人たちなのでそんなに興味はないが聞いている。

だが今日は、天気が良いので外にキャンプ用の机と椅子を出してデパートのお弁当を食べた。やはり見えるものに興味が湧くようで、ご近所さんの話。ずっと育ってきた場所で、子どものときは毎日のように集まっていた友達の話だから身近な話題である。

のはずだが、その身近な世界のことを何も知らないことに気付かされた。最近越してきた(感覚的にはそうだが実際はかなり前)お向かいさん奥様のお腹が知らないうちに大きくなり縮んだことは知らない人なのでまだしも、子どもの頃一緒に遊んでいた友達の姿も相当長らく見ていないのだった。一つ向こうの道の知り合いに関しては、存在さえ今日10年ぶりくらいに思い出したのではないか。

つい最近まで半年ほど拠点を移していたことも少し関係はあるが、その10倍以上のレンジで近所付き合いから遠ざかっている。自分から遠ざけようとなどしていないのに、こうして話にあがれば知りたい話題なのに、まったく目を向けてこなかった。

最近読んだ都市論の本で、都市社会とは決して顔を見合わせることのない集団なのに、経済や時間、地図という社会的な枠組みを通して共同体意識を持つものだという理論を読んだ。この都市社会の対立概念として、近接性の高いムラ社会があげられる。隣り合ってクラスコミュニティでは当たり前のように共同体意識が生まれることが以上の主張をするにあたっての前提になっているが、私の生きる世界ではこれが成り立っていないことがわかる。その原因は紛れもなく、自らの昼に起きて夕方家を出て深夜に帰ってくる生活リズムの周りからの乖離であるのだが、同じ「ムラ」でも違う時間違う世界を生きている感覚はそのメカニズムがわかっていても不思議である。

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