「ふくしゅー」しようぜ! #60
第9回決勝おつかれさまでした〜
やっぱり本戦だと力が出せないねぇ……
コツコツ「ふくしゅー」やってるほうが性に合ってんのかなぁ……
第9回分までの「ふくしゅー」が終わったら気楽にZMを再開させたいので、コメント欄に残してってくれると嬉しいです。
さて、第8回決勝の後半の「ふくしゅー」から済ませましょ……!
決勝第9問
答え 900円
解説
一般に、消費者が支払うものと勘違いされている消費税であるが、実際に国(・地方)に支払う義務があるのは事業者となっている。〔消費税法(昭和63年法律第108号)第五条〕
原則として、資産の譲渡に掛かっている〔同法第四条〕。
税率は、百分の七・八(軽減対象のものについては百分の六・二四)〔同法第二十九条〕となっており、加えてそれぞれの額を課税標準額として〔地方税法第七十二条の八十二〕、七十八分の二十二の税率で地方消費税が掛かっている〔同法第七十二条の八十三〕。
あわせて百分の十(軽減対象のものについて百分の八)の税率が個々に掛かっていることになり、これを総称して「消費税」としている。
ここまでを文面通りに解釈すると、①300円、②700円、③900円の計1900円となるが、消費税法第三十条の規定により、仕入れに掛かった消費税を控除できるので、①300円、②400円、②200円の計900円。
しかし、ここで「免税事業者」と「適格請求書を発行できる課税事業者」という区分に注目する。
詳細については省くが、免税事業者からの仕入には先ほどの控除が適用できなくなり、①0円、②700円、③200円の計900円となる。〔結論は変わらないが〕
決勝第10問
答え ②
解説
光村図書出版は、昭和24年に教科書の発行を中心とする出版社として創業した。
国語を中心として生活や美術、道徳の教科書を発行している。
平成27年、他社に先駆けて小学校教諭向けのデジタル教科書を発行した。
令和5年7月からは「教科書クロニクル」として、生年月日から小中学生時に使用していた教科書に掲載されていた作品を検索できるサービスを始めた。
『だってだってのおばあさん』佐野 洋子――1年(下)
平成23年度版に続けて採用。
『ちいちゃんのかげおくり』あまん きみこ――3年(下)
昭和61年度版から採用。
『モチモチの木』斎藤 隆介――3年(下)
昭和52年度版に一度採用された後(このときは「3年(上)」だった)、しばらく採用されず。その後、平成4年度版から再び採用され現在に至る。
『ごんぎつね』新美 南吉――4年(下)
昭和46年度版から採用。
『大造じいさんとガン』椋 鳩十――5年
昭和55年度版から採用。
『やまなし』宮沢 賢治――6年
昭和46年度版から採用。
※5年と6年の教科書は平成23年度版から一冊にまとまっており、それまではそれぞれ「(上)」・「(下)」のどちらかは版によってまちまち。
決勝第11問(ゆらぎ)
答え キーウィ〔、ヒクイドリ、ダチョウ、エミュー、レア〕
解説
「平胸類」は、前回決勝第2問で「ふくしゅー」した分類には当てはまらない、目より大きい括りである。
他の鳥類と比べて、飛ぶときに必要とする胸筋を支える竜骨突起が目立たないか存在しない。そのため、体躯が大柄である。
現在、南半球にのみ棲息する。
決勝第12問(うたびと)
答え 水惑星
解説
栗木 京子は昭和29年生まれ愛知県出身の歌人。
京都大学理学部在学中の昭和50年、「観覧車 回れよ回れ 想ひ出は 君には一日 我には一生」を含む『二十歳の譜』が第21回角川短歌賞で次席〔この回で本賞を受賞した人はおらず、実質トップ〕となったことで注目を集めた。
本短歌は昭和59年に刊行された第一歌集『水惑星』に収載されている。
(地球のことを言っているっぽいな……から漢字三文字でどう表すか考えるのがポイント)
決勝第13問(木月リア)
答え 61
解説
①国産戦車
昭和36年に制式化された「61式戦車」のこと。(西暦の下2桁からとっている)
朝鮮戦争を経て幾度か米軍から警察予備隊〔→保安隊→陸上自衛隊〕に対して戦車の供与があったものの、日本人の体型に合わなかったり部品の調達が難しかったりした〔 ヤード・ポンド法滅ぶべし? 〕こと等から国産化の機運が高まり、昭和30年に開発指示が出された。
昭和49年に74式戦車が採用されるまでの13年間で560輌が生産された。
②ジェイコム
平成17年12月8日、この日東証マザーズ〔当時〕に新規で上場したジェイコム株式会社の株式について、証券会社社員が「61万円で1株売却」とすべきところを「1円で61万株売却」と誤入力、エラーが出たにも関わらず確定させてしまったため、初値がついたあと大暴落、これに気づいた投資家たちが押し寄せ株価が乱高下、大混乱をきたした。
このとき、東京証券取引所が運用していたシステムに欠陥があると発覚し、システムで取り消しがすぐになされていれば損失が少額で済んだとして証券会社から損害賠償請求がなされ、証券会社側の訴えが認められた。
③稀勢の里、豪栄道
大相撲における昭和61年度生まれの力士の総称、「花のロクイチ組」。
二学年上の白鵬〔現:宮城野親方〕が圧倒的強者であったことから、同じようにまとめられる「花のサンパチ組」〔昭和38年生まれ〕、「花の六三組」〔昭和63年三月場所初土俵〕と比べると平均的な最高番付は〔未だ現役の者はいるが〕低め。
現在、稀勢の里は二所ノ関親方、豪栄道は武隈親方として後進の指導に当たっている。〔令和6年五月場所で幕内最高優勝を決めた大の里は二所ノ関部屋所属。〕
④プロメチウム
$${promethium}$$ 原子番号61、元素記号$${\mathrm{Pm}}$$
ギリシャ神話において、人類に火をもたらしたとするプロメテウスに由来。
天然には、ウラン鉱石の内部でウランが自発的に核分裂を起こして生成されたものしか存在しない。
決勝第14問
答え 鹿児島県薩摩川内市鹿島町、上甑町、里町、下甑町〔下図赤点付近〕
解説
電話番号の先頭につく「0」は国内開放番号と言い、国内通話を示す符号となっている。〔ゆえに、国際電話のとき、日本を表す「+81」のあとは0を取るよう案内される〕
固定電話において、その後に続く1ケタから4ケタの数字が〔厳密に言えば〕「市外局番」であり、電気通信番号計画〔令和元年総務省告示第6号〕別表第1に規定されている。
なお、市外局番は原則として北海道を1から始まる番号として順に南へ数字が大きくなるように指定されている。
同じ市外局番であれば、原則として市内通話料金で相互に通話が可能となる単位料金区域〔MA:Message Areaとも言う〕も同じである。
続く1ケタから4ケタ〔市外局番と合わせて5ケタ〕が「市内局番」であり、通話料金を計算する基礎となっている。
同じ市内局番を使用する者が増え、使える番号が少なくなると市外局番の最後のケタを市内局番の最初のケタにすることで番号を増やしている。
ここで問題に戻ると、南九州方面で人口が少なそうなところという推論が立ち、鹿児島・沖縄あたりの離島へと目がいく。そして、沖縄・奄美はアメリカによる統治下にあったことから例外となりそう……と絞り込んでいくと甑島あたりっぽいとguessできそう。〔たぶん〕
ちなみに、市外局番は「09969」で合計は33。
決勝第15問
答え ①-B,②-C,③-D,④-E,⑤-A
解説
だいち
〔ALOS:Advanced Land Observing Satellite〕
2006年1月、H-ⅡAロケット8号機にて打ち上げ。
2007年9月、アマゾン川流域における違法伐採の監視に用いられ、証拠写真の伝送が従来の3ヶ月から10日へと大幅短縮された。
2010年1月、ハイチ地震における地殻変動を捉えた。
2011年3月、東北太平洋沖地震(東日本大震災)の被災状況について情報提供を行なった。
同年4月22日、全機能停止となり5月12日に運用を終了した。
きずな
〔WINDS:Wideband InterNetworking engineering test and Demonstration Satellite〕
2008年2月、H-ⅡAロケット14号機にて打ち上げ。
2009年7月22日、この日日本で観測された日食について、本衛星を用いて国立天文台が硫黄島からの中継を実施した。
2019年2月9日、通信ができなくなり、同月27日に運用を終了した。
いぶき
〔GOSAT:Greenhouse gases Observing SATellite〕
2009年1月、H-ⅡAロケット15号機にて打ち上げ。
従来の地上観測では難しかった地球全体で均一のデータを入手することが可能になり、このデータを利用することで推定誤差がかなり軽減された。
みちびき
(QZS:Quasi-Zenith Satellite)
平成22年9月、H-ⅡAロケット18号機にて打ち上げ。
位置測定に必要な残り3機が順次打ち上げられたのち、当該機が設計寿命を迎えた、令和4年3月に後継機が運用開始されたことをもって運用を終えた。
しきさい
〔GCOM-C:Global Change Observation Mission-Climate〕
しずく〔GCOM-W:Global Change Observation Mission-Water〕とともに「地球環境変動観測ミッション」に用いる。
本機は、大気中のちりや雲、陸上植物や海洋プランクトンなどの分布を長期間にわたり観測し、地球全体での熱の出入りや生態系の変化についてのモデルを構築して対策を検討するのに役立っている。
決勝サドンデス
答え 〔以下太字部分〕
解説
①古今和歌集
醍醐天皇が命じ、延喜五年〔905年〕に奏上された。
紀 友則・紀 貫之・凡河内 躬恒・壬生 忠岑を撰者として、『万葉集』に採用されなかったものから当代までの歌を集めた。
藤原 定家の写本によれば、計1111首〔うち、長歌5首・旋頭歌4首〕
②後撰和歌集
村上天皇の命により編纂され、天暦年間終盤から天徳年間始め〔およそ950年代〕に成立したようだが、伝わっている写本には序文がなく、詳細な成立年代は不明。
一説には、天徳四年に起きた内裏の火災で天皇への奏覧本が焼失してしまったからという。
③拾遺和歌集
寛弘年間はじめ〔1000年代半ば〕に完成。
花山法皇による親撰と考えられるが、藤原 公任私撰の『拾遺抄』との完全な一致(に加えて『拾遺和歌集』にしか見られない歌があること)から、江戸時代の国文学者塙 保己一により『拾遺抄』の増補改訂版が『拾遺和歌集』であるとの見解が示されている。
花山法皇の趣味が昇華したものとして、厳密には「勅撰」と言えないのではないかとも言われている。
④後拾遺和歌集
白河天皇が藤原 通俊に命じて作成。応徳三年〔1086年〕完成。
当時、通俊は天皇主催の「承暦内裏歌合」に参加した記録は残っているものの注目されるような人物ではなかった。
ゆえに、彼の撰集に難色を示した者も多く、特に源 経信は『後拾遺問答』・『難後拾遺』を取りまとめ批判した。
⑤金葉和歌集
白河法皇(『後拾遺和歌集』完成直後に退位、嘉保三年〔1096年〕に出家)が源 俊頼(源 経信の子)に命じて作成し、元治元年〔1124年〕に完成。
しかし、詳しい事情は不明ながら法皇は二度突き返している。
また、『拾遺和歌集』との重複が5首あり問題視する者もいた。
⑥詞花和歌集
崇徳上皇が藤原 顕輔に命じて編集され、1150年代はじめに完成。
当時の歌よりも少し前の歌が多く選ばれているのが特徴。
⑦千載和歌集
後白河法皇が藤原 俊成に命じて撰集。文治四年に完成したことは分かっているが、実際に法皇が院宣(指示)を出したのかは資料によってまちまちとなっている。
編纂作業中、都を追われていた平家の一人、平 忠度がこっそりと俊成のもとへ赴き、自らの歌を記した巻物を託した。これを受けて、俊成はこの中から一首を選んで詠み人知らずとして載せたという。
⑧新古今和歌集
後鳥羽上皇の勅命により、建仁元年〔1201年〕和歌所が設置され、源 通具、藤原 有家、藤原 定家、藤原 家隆、飛鳥井 雅経、寂蓮の六名が撰集にあたった。〔寂蓮は翌年に亡くなる〕
ある程度が集まったあと、上皇自らも吟味を行なった。
元久元年〔1204年〕、一応の完成を見て宴が催されたが、その後も編集作業は続けられた。
⑨新勅撰和歌集
貞永元年〔1232年〕、後堀河天皇により勅命があり、藤原定家単独で撰集。
しかしながら、同年中に皇太子秀仁親王〔→四条天皇〕への譲位が決まったため定家は慌てて、仮の仮名序と収録内容の部立のみを記した目録のみを奏上し、編纂を続けた。
天福二年〔1234年〕、後堀河上皇が崩御したため、定家は編集作業を終了するが元関白の九条 道家と摂政である九条 教実の親子が引き継ぎ、承久の乱によって都を追放された後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇の歌が除かれ、文暦二年〔1235年〕に完成した。
⑩続後撰和歌集
後嵯峨上皇の命により、藤原為家が宝治二年〔1248年〕から建長三年〔1251年〕にかけて撰集。
先ほどの『新勅撰和歌集』から外された三上皇の歌も収載されているのが特徴。〔同じ歌かは不明〕
⑪続古今和歌集
正元元年〔1259年〕、藤原 隆家が後嵯峨上皇から命を受けて撰進を始めるが、三年後九条 基家、衣笠 家良、六条 行家、真観の四名が撰者として加えられた。
面目を潰された形となった隆家は、以後嫡男である為氏に役割を任せた。
文永二年〔1265年〕、完成し奏覧された。
⑫続拾遺和歌集
建治二年〔1276年〕、亀山上皇が二条 為氏〔先ほどの藤原 為氏と同一人物〕に命じて作成。
関東武士の歌が含まれているのが特徴。
⑬新後撰和歌集
正安三年〔1301年〕、後宇多上皇が二条 為世に命じて作成。
新鮮みに欠けるとの評あり。
⑭玉葉和歌集
伏見上皇が正和元年〔1312年〕京極 為兼に命じて作成。
歌壇における藤原氏一族の対立や皇位の継承をめぐる朝廷内の混乱もあり、院宣から奏覧に至るまで紆余曲折を繰り返した。
その結果、勅撰和歌集の中では最多となる2800首を集め、当時は批判されていた。
しかしながら、現在では詠み人は知られていても、当時までに知られていなかった歌が載せられているなど注目すべき点も多い。
⑮続千載和歌集
文保二年〔1318年〕、後宇多法皇により二条 為世が編纂。同年中に奏覧されている。
『玉葉和歌集』への対抗を狙ったとされるが、同じ撰者である『新後撰和歌集』との違いに乏しいと言われた。
⑯続後拾遺和歌集
元亨三年〔1323年〕、後醍醐天皇が二条 為藤に命じて作成。翌年に為藤が亡くなったため彼の甥にあたる為定が後を継いで正中三年〔1326年〕に奏覧された。
採用されている歌人のおよそ1割が鎌倉幕府関係者であることが特徴。
⑰風雅和歌集
康永四年〔1345年〕、北朝において花園法皇監修、光厳上皇親撰により作業開始。
承和五年〔1349年〕秋ごろ完成。
『玉葉和歌集』の流れをくみ、京極家主導による歌壇の集大成とされる。
⑱新千載和歌集
延文元年〔1356年〕、足利尊氏を通して北朝の後光厳天皇から指示が出され、二条 為定が選定にあたった。延文四年〔1359年〕完成。
勅撰和歌集の作成に武士の介入があったのはこれが初めて。
⑲新拾遺和歌集
貞治二年〔1363年〕、足利義詮を通じて後光厳天皇から指示が出され、二条 為明が選定にあたった。
翌年の完成直前に為明が亡くなったため、一部を頓阿が引き継いでいる。
⑳新後拾遺和歌集
永和元年〔1375年〕、足利義満を通じて後円融天皇から指示が出され、二条 為遠が選定にあたった。
為遠の作業が遅く、しばしば義満による叱責があったらしい。
途中で為遠が亡くなったため、親戚筋の二条 為重が完成させた。
㉑新続古今和歌集
永享五年〔1433年〕、足利 義教を通じた後花園天皇からの下命で飛鳥井 雅世が作成。
時の権力者への忖度や妥協が見られるという。
以後、計画は立つが、応仁の乱を始めとする世情の混乱や朝廷の権威低下などの理由から作成されなくなる。
あとがき(?)
長かった……
いつか、「二十一代集」はZM使ってリベンジしたいなぁ……
ちょうど「ふくしゅー」も今回で60回。
時計の針も一回り。
オモイカネ杯も新しく動き出す……?〔ちょっとレギュレーションに変更あり〕
次回の「ふくしゅー」もお楽しみに!
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アルセントでした(-⚀ω⚀)ノシ
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