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車窓を求めて旅をする⑩ 道の終結は山間の終着駅 ~ゆとりーとライン・名松線~

道の終結は山間の終着駅 ~ゆとりーとライン・名松線~

     ゆとりーとライン

 2018年11月に北海道新幹線に乗ったことで、JR線で未乗なのは三重県の名松(めいしょう)線「家城(いえき)~伊勢奥津(いせおきつ)」だけとなった。2013年11月に乗った八戸(はちのへ)線でJR全線に乗ったことにはなっていたが、その後に開業した新幹線や復活開業した可部(かべ)線の末端区間に乗ったりしながらJR全線完乗の看板を維持しているうちに、休止区間だった名松線の上記区間が復旧した。
 2009年に台風による被害で名松線の山間部の区間が休止に追い込まれた。私は2010年7月に名松線を訪れ、家城から代行バスに乗車して伊勢奥津まで行っていた。バスは民間のバス会社によって運行されていたが、JRの職員が乗務し、休止中の各駅にひとつずつ立ち寄るなど、普通の路線バスとは違った面白さがあった。だが、終点まで鉄道に乗れなかったという未練が残った。
 このまま廃止なのかという懸念を抱いていた。名松線は国鉄時代に、赤字ローカル線廃止問題に際して選定された「特定地方交通線」のひとつとなっていた。本来ならば廃止されているか、第三セクター化されている路線なのだが、沿線の道路の未整備を理由に廃止を免れた路線なのである。「これを機に」などという流れになってもおかしくはなかった。
 しかし、そんな心配は杞憂だったようだ。名松線は2016年3月に全線復旧を遂げたのである。
 走り始めたのであるなら、乗りにいかなくてはと思うのが全線完乗のタイトル保持者の心境で、そんな動機で旅に出るのは理性のネジが外れているようにも思えなくはないが、目的があってこその旅なのだと開き直りの気持ちもある。
 そうして2018年の年末、私は東海地方に出かけた。北海道から帰ってきて間もないので節約旅行で、移動は青春18きっぷを使用しての普通列車と快速の旅となる。

 2018年12月29日、私は東海道本線を乗り継ぎながら愛知県までやってきた。名古屋(なごや)から中央本線の電車に乗って大曽根(おおぞね)に着いたのは16時04分で、すでに冬の太陽は傾き始めている。改札を出ると周辺は中規模ビルや商店が並び、なかなか賑わいのある駅前だった。大曽根はJRだけでなく名古屋市営地下鉄や名鉄瀬戸線も通る、交通の便のいい町である。
 駅前広場に高架がそびえていた。この高架は線路ではなく道路だ。道路だが鉄道である。
 ややこしい言い回しになっているが、私はこれから日本の鉄道の全線完乗のためにバスに乗る。列車に乗るためにバスを乗り継ぐのではなく、バスに乗るのが目的だ。要するに、このバスが鉄道なのである。
 大曽根駅前から延びるこの高架は「ゆとりーとライン」と名付けられたバス路線が使用している。ゆとりーとラインはここ大曽根から中央本戦の高蔵寺(こうぞうじ)まで走るバス路線で、この内、大曽根から小幡緑地(おばたりょくち)までが案内軌条の上を走るガイドウェイバス区間となっている。ガイドウェイバスとは簡単に言うと、案内軌条によってステアリング操作不要でバスが走行できるシステムであり、この仕組みゆえに交通分類上は鉄道となるのだった。
 改札でICカード「TOICA」を購入し、構内に入る。乗り場にはホームがある。高架上にある短いホームという外観は新交通システムの駅を思わせた。
 やってきたのは見た目は普通のバスで、実際のところ床下の機器を見なければ普通のバスとの見分けはつかないだろう。
 16時20分、席が埋まるほどの乗車率でバスは発車した。日が暮れてきた町の景色を見下ろしながらガイドウェイバスは走る。右窓にナゴヤドームやショッピングモールが見える。矢田川を越えて名鉄瀬戸線と交差すると景色は郊外のものとなってきた。
 ゆとりーとラインが開業したのは2001年で、渋滞知らずのガイドウェイバスを建設したような地域だから住宅は多く、実際乗車率もいい。途中から乗ってくる人もいる。道路と並行するこの高架は、県道20号線から県道202号線に相棒を移し、庄内川の近くを走り始める。徐々に丘陵地帯に入ってきた頃、ガイドウェイバスの終点である小幡緑地に着いた。
 鉄道路線の乗りつぶしとしてはここで降りてしまってもいいのだが、この先を見たくて私は次のバス停まで乗り通すことにした。
 小幡緑地「駅」を出ると、バスは運転手による操作で走行を開始して、弧を描きながら地平に下っていき、県道202号線と合流した。次の「バス停」はすぐで、県道に合流して100メートルも走らないうちに龍泉寺口(りゅうせんじくち)バス停に着いた。大曽根から16分が経過していた。
 寺院の名を冠したバス停なので参拝しに行くことにした。予備知識はまったくない。バス停のそばに緩い坂道があり、そこを上っていくと低い丘の上に龍泉寺が現れた。
 龍泉寺は馬頭観音を本尊とする寺院で、龍が一夜にして建立したという伝説を持つ。弘法大師(こうぼうだいし)が熱田(あつた)神宮の八剣のうち三剣を埋納したと伝えられ、天正十二年(1584)の小牧・長久手の乱では、徳川家康(とくがわいえやす)を討つために羽柴秀吉(はしばひでよし)がここに陣を張った。かように様々な歴史を持つ寺院だった。
 境内の一角から町が見下ろせる。高台から見た空は遠くがまだ少し明るかった。
 帰りは小幡緑地から乗ってみようと思う。駅の手前にこの路線を運営する名古屋ガイドウェイバスの本社があった。小幡緑地はその名の公園が隣接した駅で、駅舎はなく階段を上がるとホームとなる。そぼを通る県道202号線はひっきりなしに車が行き交う。駅の周りは住宅も多く、やってきた大曽根行きのバスは座れないほど混んでいた。

 名古屋駅前は混んでいた。今夜の宿は駅に近い所にある安宿を選んだ。名古屋駅太閤口にそういう宿がいくつか立っている。
 私は日の沈んだ駅前を歩き、家電量販店を見たり、地下街を回ったりしたが、人混みに少々の疲労をおぼえていた。宿にチェックインしたあと、静かな町に足を向けようと青春18きっぷを持って宿を出た。
 どこに行くかは考えていない。歩きながら思案した。岐阜の方まで出てみるか。それとも、愛知県内の東海道本線の町に行くか。片道30分くらいまでの距離にある町をいくつか思い浮かべているうちに、足は関西本線のホームに向いた。
 19時33分の快速みえ伊勢市(いせし)行き。本線の快速ではあるが、三重県内はJRよりも近鉄を利用する人が圧倒的に多く、列車は二両編成で、途中から非電化区間を走るので電車ではなく気動車だ。
 私は三重県の桑名(くわな)に行くことにした。ゆとりーとラインが開業した年の年末、京都府の丹後(たんご)に向かう旅をした私は、一泊めに桑名に泊まった。それ以来の桑名である。
 桑名は東海道の宿場町だった所で、大きくはないがそれなりの規模の町である。名古屋から20分で桑名に着くと、駅舎は工事中だった。桑名駅はJRと近鉄が並んでいる構造だ。
 駅前に古びたビルがあり、一階に居酒屋が数軒入っている。店先から感じられる雰囲気は賑やかで、一人でそういう店に入る気はしないから、駅前通りを歩いてみることにした。
 記憶の中の桑名の町は国道1号線沿いのあたりまで店が並んでいた。桑名はハマグリの名産地だから、ハマグリ料理の店もあったのを憶えている。だが、今歩いている町並みは記憶の中の景色より少し寂れていた。
 国道まで達してから別の道を通りながら駅の方角に引き返す。めぼしい店がなければ、駅前の居酒屋を頼るしかない。
 歩いているうちに細い飲み屋横丁を見つけた。古い小さな店が何軒と並ぶ。その中に良さげな洋食屋を見つけ、そこでビールを飲みながら、みそかつ定食を食べた。店内は空いていて静かだったが、少し古びた内装が町並みと溶け込んでいるようで、味の良さと合わせて楽しい気分となってきた。
 店を出たあとも駅にまっすぐに向かわず、寒空の下を目的なく歩いた。裏道には何軒もの飲み屋が並び、ささやかな賑わいを見せている。年末にこういう観光地ではない町を歩くのは好きだ。一年の終わりを名残り惜しみながら、町はゆっくりと身支度して新年を迎える。その静けさの中に身を置き、あてなく歩くのが年末旅の醍醐味だと感じている。
 快速みえで名古屋に帰ってきた。芋焼酎のワンカップを買って部屋に入る。駅前の安宿は雑居ビルの中の宿で、一階は居酒屋だった。私は地下階にあるシャワールームに向かった。
 シャワールームは狭い箱で仕切られ、脱衣スペースとシャワー室が扉の中にある。私と入れ替わるように女性が出ていったが、私が中に入って鍵を掛けた頃、続いて中国語を話す女性グループがやってきて、室内は賑やかになっていった。簡素な設備なので防音も何もない。
 賑やかな中国語の会話を聞きながらシャワーを終えて出ると、室内には次の女性客が入ってきた。まるで女性専用の宿の様相を呈しているが、雑居ビルのような安宿だから環境はよいとは言えない。部屋に入っても窓の外から聞こえてくる喧騒は終電の時間くらいまでは続くだろうし、フロントという空間がないので、エレベーターがビルの入口で治安もよろしくなさそうだった。
 そういう環境だからこそ、神経質な人が少なくない日本人より外国人宿泊客が多いのかもしれない。
 外から部外者が進入したのか、宿泊客の仕業なのか、外が静まり返った深夜の時間に部屋のドアを激しく叩く音に起こされた。勿論、相手にはせずに寝続けた。

     名松線

 2018年もあと少しとなった。今日は12月30日。日曜朝の名古屋駅はひっそりとした空気に包まれていた。
 関西本線のホームに上がると昨夜も乗った快速みえが、昨夜の倍の四両編成で停まっている。名古屋7時43分発、目的地の松阪(まつさか)には9時ちょうどに着く。
 空は曇りである。肌寒い天気で、これから向かうのは山地だから天気が少し心配になっている。列車は伊勢湾の西側を南下していき、四日市(よっかいち)市に入って、貨物用線路が旅客用線路の倍以上ある貨物駅めいた富田(とみだ)のあたりから雪がちらつき出した。寒くなりそうな朝である。
 三重県は四日市が一番人口が多く、県庁所在地は津、観光客が集まるのが伊勢と中規模の町が点在している県で、牛で知られる松阪もそのひとつだ。駅は近鉄と共用していて、隣の近鉄ホームには通勤型電車や特急がJRの倍以上の本数で発着している。賑やかさでは比較にならない。
 そんなJRのひっそりとしたホームに、銀色にオレンジの帯をまとった気動車が入線してきた。車内は二人掛けの座席が並ぶという、ローカル線にしては豪華な内装だ。この列車が名松線の伊勢奥津行きとなる。
 JR全路線で未乗なのは名松線の家城~伊勢奥津だけとなっていた。八年前に代行バスで辿った区間である。日曜朝の起点駅から山間部に向かうローカル線は空いているだろう。空いた車内でしみじみと、これまでの軌跡でも振り返りながらゴールを迎える。そんな結末を想像していた。実際、ホームに人影もまばらだった。だが、9時38分の発車時間が近づく頃、松阪駅のホームに名古屋からのJRの特急が到着すると、跨線橋から何人もの鉄道ファンが歩いてきて車内に入ってきた。
 名松線は廃止の予定もなく、この車両も真新しい。鉄道ファンの琴線に触れる要素は何であろうか。
 二百近いJR路線を乗っていく中で、名松線が最後になってしまった理由は先述のとおりで、災害によるバス代行運転がなければ八戸線がゴールとなっていた。八戸線が最後の方まで残ったのは首都圏から三陸に行くには時間がかかるのが理由で、それもあってか、私が未乗にしている第三セクター鉄道線も三陸鉄道北リアス線で、北リアス線は久慈(くじ)駅で八戸線と接している。
 名松線が最後の方まで残ってしまったのは何が理由だろうか。行き止まりの盲腸線という線形か。沿線が観光地ではないからか。どちらかといえば地味な存在な路線ではある。
 僅かな地元民と十人以上の鉄道ファンを乗せて列車は走り出した。列車は松阪の町をゆったりと抜けると、小さく左に逸れながら、ゆっくりと紀勢(きせい)本線から離れていった。
 JRの本線とは分かれたが、農地を挟んで近鉄の主要路線と並行する。大阪や名古屋と伊勢志摩を結ぶ特急が走る近鉄山田線で、近鉄の線路は途中の伊勢中川から名古屋線と山田線が合流し、そこから西は大阪線となる。大阪線は名阪特急が走る近鉄の大動脈といえる路線だ。そのような大手私鉄の主要路線と名松線は並行している。
 広々とした田畑が広がる中、住宅も点在し、沿線はそれなりに住宅地である。だが、現れる駅はこじんまりとしたもので、複線電化の近鉄を相手に肩身の狭い風体で、単線非電化の名松線はのんびりと我が道を往く。
 住宅地である平野部では数キロの間隔、時には目と鼻の先で走っていた近鉄の線路が離れていった。名松線は山間部の入口にさしかかって、ようやく近鉄と離れて我が世の春を迎えたのだ。だが、もう沿線から人家の数は減っている。人の少ない所を独占している格好だ。前回の乗車でバスに乗り換えた家城に着いた。ここからは初乗り区間となる。
 家城は山麓の農村といった雰囲気で、駅の周囲にはどっしりとした構えの家が並ぶ。地元民もほぼここで下車した。家城を出ると車窓は山と山の間を流れる雲出川(くもずがわ)に沿う狭い平地を走り始める。右窓にそびえる山の向こうは名張(なばり)市で、名松線という名前の由来となった町である。名松線は名張と松阪を結ぶ目的で建設された。現実は、その役目は近鉄が担っている。名張は奈良県との県境に近く、バブル期に大阪への通勤圏として開発された。このあたりが関西と東海の境界といえる。
 伊勢鎌倉という駅がある。山林を背にした小駅で、駅前は建物の少ない地だが、線路沿いに少しずつ家並みが現れ始める。黒い瓦屋根の旧家といった佇まいで、その家並みが少し増えて伊勢八知(いせやち)に着く。この地域はかつて美杉村といった。伊勢八知に村役場が設けられていた。2006年元日に市町村合併で津市に併合されたが、その名が示すとおり、山の斜面に杉が高らかにそびえる、美しい杉の土地である。
 前回はバスから眺めた景色も、列車からだと印象も変わる。道路は家並みの中に入っていくが、線路は家並みの脇を抜けていく。山と山が狭くなり谷を形成していき、それと共に山深いローカル線の風景となっていった。
 やがて谷が開け、そこに農地が現れ、家が現れた。線路は川の蛇行に沿うように大きく右カーブし、集落の中に入っていきながら、11時02分に伊勢奥津に着いた。
 少しばかり賑やかだった車内の雰囲気そのままに、乗客たちはホームに出てカメラ片手に歩き回り始めた。横長の駅舎は住民センターが併設された新しい建物だが、駅前はひっそりと静まり返っている。駅舎の前には「みんなで守ろう名松線」という看板が立っていた。
 JRの全路線に乗り終わった。感慨は特にない。遂に、というよりも、やっと終わった。そんな感情が沸いてくるのは、この地に一度訪れているからだろう。理想を言えば、代行バスで訪問したことのある区間ではなく、どこかの寂れた終着駅でゴールして、一人しみじみと結果を噛み締めるような終わり方がよかったとは思う。
 しかし、こういう終結も悪くはないと思えている。伊勢奥津、いい駅名である。実際に地勢は山の奥の地であり、川が寄り添っているから、かつては水運の拠点だったのかもしれない。
 全国を旅していると、ローカル線は川に沿って走る機会が多い。陸路に川が活用された時代の名残りであり、山間は川が大事な交通網だったことを今に残す形態といえる。川を使った舟運の中継点は人が集まり賑わった。伊勢奥津の駅周辺も、少しばかりの時代の面影があった。
 ここからは松阪まで戻るしかない。名張まで結ばれなかったローカル線の終点からは、名張に向かって県道422号線が通じている。伊勢奥津と名張を結ぶ路線バスもあり、一日一往復だという。

 11時30分に伊勢興津を出た列車で巻き戻しのように景色を眺めてから12時57分に松阪に着いた。昼食にしようと考えていたが、紀勢本線の接続がいいので隣町の津に向かい、津駅構内で牛丼を食べた。松阪牛ではなく、全国チェーンの店である。
 JRのちょうどいい列車がない時間帯であったので、津から名古屋までは近鉄で行くことにした。青春18きっぷは使えないから運賃を払って乗ることになるが、津から近鉄名古屋までは1010円と安く、近鉄の急行は一時間ほどで近鉄名古屋まで運んでくれた。
 名古屋15時16分の東海道本線の新快速に乗る。あとは東に向かってまっすぐ乗っていくだけだ。今夜帰宅する予定にしている。
 電車は混んでいた。豊橋で浜松行きに乗り換えたが、この電車もとても混んでいた。私のような青春18きっぷで長距離移動する旅行者の姿も多く、そこに年末の日曜日の行楽帰りに買い物帰りの人が加わっている。混雑と喧騒に辟易してきた私は浜松まで向かわず、浜名湖を見に行こうと思い立った。浜名湖を見に行くのに適切な駅がある。
 16時44分、空はだいぶ夕暮れめいている。弁天島駅は浜名湖のそばの駅である筈だ。駅前を横切る国道301号線を渡り、建物の間を抜けると、そこは湖畔だった。
 海浜公園となっている砂浜に立ち、日の沈んだオレンジと藍色の空を眺める。湖面は光の加減で青の濃淡を映し出し、薄暮れの湖畔に彩りを与えてくれている。湖面の先に「いかり瀬」という干潟に立つ鳥居が黄昏に映えていた。降りてきてよかったと私は思った。

 東海道本線の移動は夜景の中となった。夕食をどうするかと思案した。静岡駅で降りれば店には困らないと思ったが、山間のローカル線帰りにふさわしく、町角の店で静かに飲んでみたいと思った。やってきたのは静岡の少し先、清水(しみず)である。
 清水は漁港の町だから居酒屋の魚介類で外すことはないだろう。駅横のアーケードは居酒屋がいくつも並んでいる。良さげな店を選び、その店で地酒大吟醸三銘柄セットを頼み、おでん六種盛り合わせと刺身の盛り合わせを頼んで、美味を楽しんだ。ようやくJR全線に乗り終わったという達成感が湧いてきた。
 楽しい気分になってきたが、もう夜である。やってきた電車はやけに空いていた。隣の興津(おきつ)止まりの電車だった。興津は降りたことがない駅だ。もう少し旅気分でいたい私は、清水でほとんど乗客が降りた電車に乗って20時01分、興津にやってきた。
 興津駅は海側に面して小さな駅舎と駅前広場があり、そこから細い道が海岸に向かって延びていた。もう閉まっているが、道沿いには店も数軒ある。夜目もあるが、少し鄙びた町に感じられて旅情を誘う。こういう所でもう一泊してみたいとも思う。年末の旅は観光地ではない町で静かに過ごすのが醍醐味だと改めて思う。
 道はすぐに海岸に突き当たった。だが、横切る国道1号線に遮られ、その先には行けなかった。海の上の空はどんよりと黒く、この先に人の営みはないことが窺い知れた。
 暗い海岸から戻ってくると、ささやかな興津駅の明かりが随分と頼もしく思えた。「いせおきつ」から「おきつ」にやってきたのだなと、妙なことに思いが至りながら、私はゆっくりと駅に向かった。

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